孔子 中国、春秋時代の学者。思想家。 儒家の祖。名は丘(きゅう)。字は仲尼(ちゅうじ)。 魯の国昌平郷掫邑(山東省曲阜)に生まれた。 尭、文王、武王、周公らを尊崇し、古来の思想を大成し、 仁を理想の道徳として孝悌と忠恕とを以って理想を達成する根底とした。 魯に一時仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと三十年、 用いられることなく、時世の非なるを見て教育に専念。 その面目は言行録(論語)にみられる。 後世、至聖文宣王と称された。(前551〜479) 以上 広辞苑より一部抜粋 孔子は今から約2,500年程前に生きた人、仏陀(釈迦)、ソクラテスとほぼ同時代の人でした。 生まれた年は前551年と前552年の二説があり、 亡くなったのは前479年4月11日、当時としてはきわめて長寿の73歳(前後)と伝えられています。 孔子は当時の魯の国の下級武士の次男として生まれました。 魯の国は、現在の中国、山東省曲阜(きょくふ)にありました。 孔子の生きた時代の中国は、春秋時代と呼ばれ封建的な体制が一般的であり、 王朝(周)や諸侯、武士階級が力を争う下克上の時代でした。 孔子は若い頃は貧しくて様々な職業を経験したと言われています。 孔子には少なくとも二人(男、女)の子供がいました。 娘が嫁いだ相手は、孔子も信頼できる弟子の一人(公冶長、こうやちょう)でした。 長男(孔鯉、こうり)は、孔子の下で弟子と同様の(特別扱いしない)指導を受けたことが伝わっていますが、 孔子より先に亡くなり、孔子(晩年)が葬儀(重厚にする余裕はなくて、質素なもの)をおこないました(孔子は葬礼については、最も大切なのは形ではなく、その悼(いた)む真心であると言っています)。 孔子は、当時としては長生きをしました。そのためもあって、初期の主だった弟子は孔子より先に亡くなりました。 孔子は悲しいときは素直に悲しみ、泣きたい時には泣いています。 特に互いに親子のように接していたといわれる弟子の顔淵(顔回)の亡くなった時には、孔子(晩年)はその死を惜しみ「天が私を滅ぼした」と繰り返しました。 孔子は「回は(理想に)近い」と言っていました。 したがって、自分の後を託そうとする人(弟子)に先に死なれてしまったと言えるのです。 またこのときの孔子は、その死を心から哀しみ慟哭(どうこく)しました。 人が「(いつもの先生らしくなく)慟哭されていました」と話すのを聞くと、 孔子は「このような人の為に慟哭するのでなかったら、誰のためにするのか(今泣かないでいつ誰のために泣くのか)」と言っています。 この世に素直な心で生きた孔子の人としての人間味、暖かさが伝わってくるようです。 孔子は一時期に魯の国に仕えたが、その後の生涯のほとんどを真の教育者(人の生きる道、仁等を説く人)として過ごしています。 孔子が残した言葉や行いは、孔子の生きた時代(封建君主制)を反映するものであり、 その時代においては最適と思われる言動を用いて道を説いたのです。 したがって、そのまますべてを現代に適用するのは無理があるでしょう。 孔子の言葉は、その弟子の持つ性質に応じて説かれたものも多く、すべての人にそのまま当てはまるとは言えない面も持っています。 また、語り継がれた時点で多くの人々(弟子、孫弟子等)の言葉の関与も否定出来ません。 さらには、後の人々によって様々な解釈、論説がされたこともあり孔子の言葉や思想が、ある程度の誤解を受けたり、歪曲され非難の対象とさえなったこともあるのです。 しかし、孔子の言葉や思想の奥にある真実(真理)は現代にも色あせるようなことはありません。 孔子の言葉や思想はその核心を示す仁(人を慈しむ心、慈愛、慈悲)を知ることによってその本質を知ることが出来ます。 孔子は、何より大切なその一つのことを生涯貫いた努力の人であったのです。 それは仁に通じる心、忠恕(ちゅうじょ)と表現されます。 忠恕とは、真心からの(忠)、人への優しい思いやり(恕)を言い表します。 それこそが、孔子の言葉や思想の根底に常にあるものなのです。 弟子の子貢が「ただ一字で終生行うべきものはありますか」と聞いたとき、 孔子は「それは恕である。自分の望まないことを、人に行ってはいけない(己の欲せざるところ人に施すことなかれ)」と答えています。 孔子は、古(いにしえ)の様々な教えを、孔子自身の考えに基づき研究しました。 そして、正しい徳(仁、義、礼、知、信)を得ることを目指し、(仁を尊ぶ)人の生きる道として、孔子はその思想を大成させていったと言えるでしょう。 仁 (真の思いやりをもって人を慈しむ(真に愛する)心) 義 (正しい考え(思い)や言葉や行い、仁に基づく正義) 礼 (理に適った形や決まり等の行動の規範、仁に基づく礼) 知 (正しい学問や修養によって得られる知識と知恵、仁に基づく知恵) 信 (真実を行うことによって終局的に得られる信頼、仁に基づく信) 孔子の言葉(思想)をそのままに後世に伝えるものとして論語があります。 孔子の言葉(教え)や行動を後の人々(弟子や孫弟子等)が語り伝え、書き伝えやがて編集、記録した書物を残しました。 その一連の書籍を論語と言います。 論語は、学而、為政、里仁、公冶長、雍也、述而、子路等の二十の篇に分かれています。 各篇はその内容や表現の長短や趣(おもむき)に多少の特徴も見られますが多くの篇は様々な内容を含んでいます。 特に内容に特徴のあるものとして、 郷党篇は孔子の日常の様子をまとめており、 子張篇は主に孔子の弟子(子張、子夏、子游、曾子、子貢等)の言葉がまとめられています。 孔子は魯の国だけでなく当時の多くの諸侯の国々を遊行(遊説)して回りました。 それについては、孔子が仕官を目的にしていたのではと解釈されることもあります。 その面もすべてを否定してしまう事は出来ません。 しかし、孔子は何よりも自分の考え(思想)を人々に説くことが自分の使命(天命)と信じ、 そして、その生涯を使命(孔子にとっての仁の道)に捧げたと言えるでしょう。 孔子の生涯を孔子自身が簡潔に表した、有名な言葉が残っています。 吾十有五にして学に志す。 (人として学ぶことを覚える。やがて、古典の中に自分の心に響く(共鳴する)もの(真実)を求める、学問に目覚める(志学)) 三十にして立つ。 (この世に生きる自分の命を正しく自覚する(立命)) 四十にして惑わず。 (自分の目指しているもの(仁、真実に基づく慈愛)を確信し、修養し学ぶことに惑うことがない(不惑)) 五十にして天命を知る。 (この世において自分のなすべきこと(使命)を知る(知命)) 六十にして耳順(したが)う。 (他の人の言葉(中傷、非難、嘲笑さえ)も素直に聞き入り冷静に判断(耳順、じじゅん)出来る広い心を持つ(寛容)) 七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を超えず。(為政) (自分の行いが、自分の心の求めるままになされた時、道理に反していない。自分の意志で自分を正しく制することが出来る(自制)) |