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二一、燈の影にて見ると思ふまに文のうへしろく夜はあけにけり
香川景樹(桂園一枝)
四句の「文のうへしろく」の写生が清新で、「歌はことわるものにあらずしらぶるものなり」「ただ実物実景にむかいひて思ふままを詠め」と説いた景樹らしい一首である。夜の明けるのも気がつかずに読書できた景樹を天神様は何とおぼしめしたことだろう。
灯火用の油は、江戸時代になると菜種油が普及し、菜の花畑も日本の春の代表的風物になっていた。この頃には、櫨蝋の生産も盛んになっていたが、まだまだ高価で、油火の行灯やタンコロの方が、灯火としては主流だったようである。
この歌の橙は火持ちの長い有明行灯だと思われる。当時の俳句には、行灯、提灯、松明、紙燭、瓦灯、ひで鉢などと具体的な灯火器の名が見えるが、和歌の方にはそれらの名は詠みこまれてはいない。和歌の方が襟を正したものだったせいだろうが、いささかさびしい気がする。当時の万葉派歌人よりずっと誠実直截な景樹をしても
・底ぬるき火桶ばかりを友としてくらす老ともなりにけるかな
・燈に消えをあらそふ夏虫の影ともわれは成りにけるかな
ぐらいが精一杯だったのだ。
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二二、風はやみ庭火のかげも寒けきはまこと深山に霰ふるらし
田安宗武(悠然院様御詠集)
宗武は八代将軍吉宗の第二子。采邑四十万石の中には甲斐六十三村三万石もあり、今の山梨市一町田中に陣屋が置かれていた。この神楽と題した一首は素材の面から選んだ歌であるが、このほかに
・ともしびのあかしの門より見渡せばやまとしま辺は霞かをれり
・ますらをがともしするらしをぐら山くらき夜ごとに星の影見ゆ
・飛火もり見かもとがめむ蚊遣火のけむり立ち立つ(をち)がたのさと
・おいらくの独りあるなるわびしらをうづみ火なくばいかであかさむ
・夜はごとに網代もる也篝火をひをは好みてよるにやあるらむ
・此ころはひゑどりさはぐけだしくも園のあぶらぎなりにけるかも
など、賀茂真淵から学んだ万葉ぶりに、歌合せ時代への思いが壮麗に詠みあげられた歌が少なくない。
 さて、神楽の庭火は、例の天の岩戸の、天鈿女命の「巧作俳優」を照らした「火処焼き」に始まり、現在あちこちで催されるようになった薪能に継承されている篝火である。
 なお、鵯の騒ぐ最後の引用歌は、灯油の原料としたといわれる油桐が当時庭に植えられていた証拠の歌として貴重だ。
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二三、よもすがらつまきたきつつほろゐしてにごれる酒をのむがたのしき
良寛(近世和歌集)
二句の「つまき」は、万葉集にも「磯の上に爪木折り焚き汝がためと我が潜き来し沖つ白玉」とあるように、指先でも楽々と折れるような薪で、粗朶とも呼ばれ、六で見た河口の葦と並び、庶民の囲炉裏で焚かれたものである。一茶の「焚くほどは風がもちくる落ち葉かな」の落ち葉よりはましだったが。
三句の「ほろゐ」は、この底本とした「日本古典文学大系」では、<「ほ」は「ま」の誤りか、「まろゐ」は「まろね」の意か>としている。しかし、2文字の誤記とするより、そのまま「ただなんとなくぼけーっと起きていて」と会得したい。
・月よみの光を持ちて帰りませ山路は栗のいがの落つれば
・埋火に足さしのべて伏せれどもこよひの寒さ腹にとほりぬ
などに見られる単純素朴な表現から滲み出る孤高の「ほろ苦さ」こそ、私を引き付けて止まぬ良寛の歌の味だ。
 ところで、良寛といえば目に浮かぶのは「夜のなかにまじらぬとにはあらねどもひとりあそびぞわれはまされる」の歌の自画像賛に添えられた遠近法無視の台形台四脚行灯である。世話行灯とも呼ばれる下手ものだ。この頃には、菜種あぶらも普及し、行灯も全盛期を迎えていた。二脚角行灯、遠州行灯、あこだ行灯、雪洞型行灯、有明行灯、書見行灯、船行灯などなどと多彩で、おのずから持ち主や、使用場所の格差を示すものともなっていたようである。
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二四、そむくべきくまものこらぬあばら屋は月にけちぬるあきのともし火
小澤蘆庵(六帖詠草)
初句「そむく」は、十七で触れた花園院の「壁に背ける夜半の燈」への二重背きともみられるが、独自の歌論を唱え、輔平に出仕を止められたり、為村から破門された自身への思いも込められているのだろうか。
蘆庵は、「ただごと歌」の提唱者として知られ、二十一の景樹の歌も、その主張を具現した歌と見みなされている。
「ただごと」とは漢字で書けば「正言」で、ひねったり、たとえたりしないで、直接・平淡に表現することだという。
 以下、「六帖詠草」から、灯火の歌を拾って、その「ただごと歌」ぶりを覗いて見よう。
・うちいでてみねどもしるし石かねをいれし袋の中のおもいは
・暁によはなりぬらしさつき山木のまのともしかげしらみぬる
・風さえてなほうづみびのあたりまで春としもなく雪ぞ吹入る
・ふけぬとてかかげそへずば残る夜のなほくらからん窓の燈
・かきおこしほだ切りくべよ埋火のあたりも寒き冬の山里
最後の歌の二句の「ほだ」は、「榾」「榾柮」と書かれ、二十三の歌の「爪木」よりやや太い薪で「柴」とほぼ同じもの。同じといえば、この歌、良寛の歌と並べても、さほどの違和感はない。「ひとり遊び」と「正言」は同根なのだろう。
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二五、風たえて庭に手向ける燈下も影しつかなる星合ひの空
大竹信政(水雲點和歌)
享保十四年、甲府城における乞巧奠の歌会の百七首の巻頭首である。大竹信政という名は、古典文学大事典はもとより甲斐の人名録の何れにも見当たらない。この和歌集の前書きでは、勤番善次郎の父とされているが、山上憶良以来の故事づけの星合の歌の例からすっきりと脱却した平明な歌柄からは、江戸に下っていた頃の春満の門人の一人とも考えられ、甲府城歌会の指導者として息子の勤番屋敷に同居していたとも考えられる。なお、この歌会には、信政を筆頭に、勤番、手代と地元の医者、僧侶、神職、など十七人が参加し、十三人が出詠している。
 乞巧奠と言えば誰でも、清涼殿や冷泉家のそれや、五節供の一つと定め、各大名から鯖代なるものを献上させた江戸幕府の事を思い浮かべることであろうが、幕府の直轄だった甲府城でもこれに類した節句が持たれたのであろう。しかし、信政の当夜の「わざはひの数つもる世に星合の空にたがはぬまことをや待つ」の歌の一 二句がそれを指しているかどうかはとまれ、享保十二年秋には「甲府城より出火、城下町の大半を焼く」、同十三年夏には「諸川氾濫し死者続出」直後で、その奠を照らす燈下は「黒漆の灯台九基を配し」(『江家次第』)というわけにはいかず、この歌会が即乞巧奠だったのかもしれない。
 ついでながら、近年、甲府城や、勤番屋敷の発掘調査が行われ、灯火器と目される遺物の中で一番多かったのは、たんことだったと報告されている。
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二六、底清くてらすかがりにいさわ川いざこととふるいろくづやある
賀茂秀鷹(富士日記)
三句の「いさわ川」は、歌枕「差出の磯」より一里下流の笛吹川の別称。
 四・五句は『夫木集』の「しほのやま差出の磯に散りかかる花をかづかぬいろくづぞなき」を踏まえての思いだろう。即興ゆえに、かえって従来の漁火の歌より清々しい。特に一 二句は笛吹川の清流を彷彿とさせる。「富士日記」寛政二年八月九日の夜の詠歌だが、その夜の様子は「日暮れはてていざやと言へば川辺に出てみるにいと興あり。去年玉川にても見しかども、つかうさまもちがひて、こよなくまさりていと面白しと思ふも、いさわ川の名にもよれるなるべし。かがりをこの里人はたいとも言はず、かんばと言へれば、いかにときくにかばもて調じたればしか言ふとぞ。」のごとくである。
 文中「たいとも言はず」とあるのは、同記の七月二八日の記事に「たいをも用意したり。ものをも食べて送りまゐらせんと言ふに程近からんことは知られたり。さてたいといふは、つい松をたい松とも言へば松を省きたるなりと吉田にても聞きたれば心得たり」に呼応する。
 石和の鵜飼は、世阿弥の謡曲「鵜飼」で知られてきたが、近年、石和の温泉祭りのイベントの一つとして復活している。ここの鵜飼は、篝火に樺を用いたことと、鵜匠と樺持ちが二人一組になって川に徒歩入って行うことなど、秀鷹の記したとおり、「さまもちがいて、こよなくまさりていと面白」く、「吉田の火祭」「南部の投げ松明」と共に山梨の夏の夜を彩る貴重な文化遺産でもあろう。
no.26
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二七、ふく風にきえもやすると燈をかくせば花のちるは見えずて
大隈言道(草徑集)
「近世和歌が到達した一つの究極」と言われる言道が、激動する世に背を向けて、ひたすらに詠みあげた歌は十万首に及ぶという。その中から自らが精選して残した「草徑集」には「ふく風に・・・」の他に
・ともしびと我とははかなよひよひにものもえいはぬわざくらべして
・ただ一つのこるともしび火ながらも冬の夜更けてかげぞ寒けき
・ひまもなくたかねばならぬあし火かな身のあたたかくなる時もなく
・あたたげもなげになりゆく時しもぞはなれがてなる夜はの埋火
・煙などいぶせくたてるふるさとにかやつりぐさしなぐはしきかな
など、幕末の灯火の様子と、はかなく消えるものへの思いが込められた歌が見え隠れしている。
 この頃、西欧では既に、風にも消えず、煙も少なく、長時間灯り続ける石油ランプが、庶民の家庭にまで普及していたのだが、そんな海の向こうのことなど知る由もなく、江戸時代とともに、言道もまたはかなく消えていったのである。
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二八、人麿の御像のまへに机すゑ燈かかげ御酒そなへおく
橘曙覧(君来艸)
長い前書きがあるが、要旨、「慶應三年正月十五日、自宅で歌会始めを催したところ、藩主が使いの者に、その会の様子を報告するように命じた。そこで、わざと畏まることなく戯れ詠みにした。」とのことである。しかし、
・汁食とすすめめぐりてとぼしたる火も消えぬべく人突きあたる
・食ふものは尽くる寒さは強くなる小き火桶すがりあらそふなどの一連十四首は、当時の歌会の様子が生き生きと描写されていて、たのしい。
 斎藤茂吉も「自在で気迫流動し、実相を客観的にあらはして、その調べで作者の生がおのづからあらはれるといふことは従来の歌にはないのである。」と評価している。
曙覧には、この連作の他に、灯火を詠んだ歌は少なくないが、五十五首連作の「独楽吟」から二三抜いてみよう。
・たのしみは炭さしすてておきし火の紅くなりきて湯の煮る時
・たのしみは湯わかしわかし埋火を中にさし置きて人の語る時
・たのしみは明日物くるといふ占を咲くともしびの花にみる時
・たのしみはすびつのもとにうち倒れゆすり起こすも知らで寝し時
三首目の「ともしびの花」は、灯芯の燃えさしの先が花のように固まる現象で、財貨を得るという俗信があった。
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二九、ともしびをさしかふるまでいくさ人おこせし文を読み見つるかな
明治天皇(明治天皇御製集)
「ともしびをさしかふる」について、昭和二年刊の『明治大帝』に、御用掛の樹下定江は次の様に記している。
No.29 「宮城は表の方こそ外国との交渉上、やむを得ず電灯をお許し遊ばされましたが、御内儀は御崩御まで、ランプや電灯を用いることを許されませんでした。御座所も御局も、西洋蝋燭にホヤをした御灯で、聖上が御書見を遊ばすおそばにも、やはりお蝋燭立が御座いました。長い長い御廊下は種油に灯芯を入れた網行灯が十間おきぐらいに立って居て、ボンヤリと照らして居りました。また、蝋燭の使用については、千葉胤明が「いずれ家計の豊かでない者が奉仕しているので、御蝋燭の半分ぐらいは燃え残りとして彼らの余得になされたとのことである。なお、御殿の御障子は御蝋燭の油煙のため黒ずんで、御間内は昼でもうす暗い程でありましたが、そんなになっても容易に御張り替えのお許しがなかったそうで、農家のくりやの障子紙でも、こんなに黒くなったのはなかろうと思うくらいであります。」とも記している。
定江の記した「ホヤをした御灯」は、『聖徳記念絵画館壁画集』の「広島大本営軍務親裁の図」に見られる所謂ギヤマン燭台であろう。また、胤明の「油煙のため黒ずんで」から推すと、その西洋蝋燭は、まだ牛脂(ステアリン)蝋燭であったろうと考えられる。
ともあれ、御製からも、御所の照明の記録からも、「ひとりつむ言の葉草のなかりせばなにに心をなぐさめてまし」と詠まれて、専門歌人以上に和歌に心を寄せ続けられた明治天皇のお人柄が偲ばれる。
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三十、ともし火に近くよりつつ見る文も目がねをたのむ身となりにけり
昭憲皇太后(昭憲皇太后御集)
歌人明治天皇の皇后として、まことにふさわしく、何のてらいもない率直平明な御歌である。
 千葉胤明の『明治天皇御製謹話』によると「皇后様は一条左大臣忠香公の姫君にわたらせられ、明治元年一二月二十八日、御入内ののち、勝子を美子とお改めになられました。御貞淑にして御情深く、まことに日本婦人の典型にいらせられましたが、御生得御虚弱にあらせられました。聖上は、そのことを絶えず御心配遊ばされて、代々木の御料地に、皇后様の御散歩道を御設け遊ばされ、古井戸の御改修や菖蒲園の御造園に次いで、御休息所を兼ねたお茶室『隔雲亭』をお建て遊ばされました。」とのことである。
 皇后には、三十の御歌の他
・埋火のあたりのどけきまどゐには親しからざる人なかりけり
・知る人の面影うつす油壺にむかへばわれもうちゑまれつつ
などの灯火の御歌が残されている。前の御歌からは、隔雲亭での夜の茶会と、十四の建礼門院右京太夫の歌と思いが重なる。
 後の御歌は、ランプが灯っていた一条家へのお里帰りの折の歌だろう。二九では、字数の都合で、宮中でランプと電灯が許されなかった理由にまで触れられなかったが、『明治大帝』には「聖上は、国会議事堂の漏電による火災に痛くみ心を悩まされ<まだランプや電灯の技術には未熟の点が多い。>と仰せられていた」との記述も見えている。
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三一、たつとなき釜の湯の気のかげをさへ壁にみせけり庵のともしび
大口鯛二(現代日本文学全集、改造社版)
 明治の所謂御歌所歌人の一人の一首であるが、正岡子規歌集の中にあっても、さほどの違和感はないであろう。夜の茶会の静かな情景が確かに描写されていて静かだ。
No.31 夜の茶会の様子は、横光利一の「紋章」や、井上靖の「本覚坊遺文」のいずれものクライマックスシーンを思い浮かべる人も少なくないであろう。数江瓢鮎子氏は「茶事の小道具」の中で「夜の茶会は、亭主も客も、明かりに、ほのかに浮かび出る茶の湯の様子を楽しむ会だといえましょう。客が路地入りするときの路地行灯、灯籠、手燭。寄付の寄付行灯、煙草盆の火入、手焙り。茶室での小灯、室の広さに応じた燭台、短檠、竹檠、そして釜の下の炭火、と正に古灯火器のオンパレードのようです。しかし、明治の後半から、茶の湯は生け花とともに良家のお嬢さんのお習いごとに傾き、お点前のお稽古が主で、夜咄などの茶事を知る人さえ少なくなったようです。そのため、こうした灯火器も必要が無くなり、だんだんに姿を消していき、最近の茶事復活ブームを迎えて茶碗や茶入れに負けない価格で取引がされるようになっています。」と述べている。
 天井からの蛍光灯の明かりの下の生活で、この歌や「うつみ火や壁には客の影法師(芭蕉)」のような壁の影法師も、普通の生活からは全くと言っていいほど影を潜めてしまったものの一つだ。
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三二、燈火のあぶらつぐまにひえにけりいま起きいでしねやのふすまも
小出粲(現代日本文学全集・改造社版)
 小出粲という歌人とその歌は、三一の鯛二とともに、昭和二年刊の「現代日本文学全集」の「現代短歌集」には見えるが、昭和二十二年刊の「現代日本文学全集」(筑摩書房)の「現代短歌集」には見当たらない。御歌所歌人で、近世和歌の亜流としか位置づけられなかったからであろう。昭和二十二年刊の短歌集の巻頭の「一つもて君を祝はむ一つもて親を祝はむ二もとある松」(落合直文)などより、ずっと実感のある歌なのだが。
 それはさておくとして、ここでは、燈火に油を注ぐ道具について振り返ることにしよう。
 行灯などに油を注ぐ道具は、文字通り「油注」と呼ばれていたが、油皿の別名の灯盞との混同を避けて、「油差」と呼ばれることのほうが多かったようである。陶器製の古いものは急須型が多いが、江戸時代のものは油徳利と呼ばれ、注ぎ口の外側に漏斗状の縁が突出し、その中に小穴が空けられ、余分な油が徳利の中に戻るようになっている。
 銅製の油差の多くは急須と同じ形で、彫金を施したものも少なくない。この手の油差には、灯芯の燃え屑入れ(蓋に小蝋燭立が備わっているものもある)と、灯芯挟み箸とをセットにしたものも残されている。
 なお、油徳利や、銅の油差は、行灯皿に置かれていたことが浮世絵などによっても知られる。
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三三、あたまもるとりでのかがり影ふけて夏も身にしむ越の山風
山県有朋
 戊辰戦争が、明治にずれ込んだ越後妙見峠での戦争詠。内戦の「あたまもるとりでのかがり」も、このあとの西南戦争で日本からは消えていったものの一つと思っていたのだが、戦国武将好きのNHKの大河ドラマと、それに追従した城や砦の復元や、合戦絵巻などというイベントで、最近は、幼い子供たちまで、その火の粉を浴びるようになって来たようだ。
 ・くろがねの 筒の火花をちらしつつ さきあらそひてゆくは誰が子ぞ
とも、あたまもりつつ詠んだ有朋の思いは、称賛であったのか、悲しみであったのか。
 ところで、山県有朋と聞けば、厳めしい髭と軍服姿が先ず目に浮かぶだろうが、三二の小出粲に師事して若い頃から歌の道に入り、晩年まで作歌に勤しんだ文人でもあった。還暦の年に京都無隣庵に明治天皇から京都御所の松の若木の御下賜を受け、
 ・おひしげれ松よ小松よ大君の めぐみの露のかかるいほりに
と詠んで、写真を添えて捧げたことや、八十歳の誕生日に東京椿山荘における賀宴で、天皇・皇后の御親筆を掲げ、寺内首相以下二百名近くの諸侯文人の祝歌を受け、有朋自らも
 ・しる人もまれになるまで老いぬるを 若きにまじるけふの楽しさ
と漆でしたためた高坏を返礼として贈ったことは、人のよく知るところである。
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三四、提灯の火が少しばかり先になりて野菊の花が照らされ居たり
佐々木信綱
 三十一文字(みそひともじ)和歌(やまとうた)から穏やかに短歌に移行させた清新な一首である。「提灯の火が少しばかり先になりて」には、期せずして、そんな自負も伺える。
 さて、提灯は、十五世紀頃から図会などに見られ、はじめは行灯のように木の枠に紙を張って手に提げて歩いていたものだったが、十六世紀中頃に細かい割竹を螺旋状に巻いて骨とし、折り畳みができるものが生まれ、以後、日本の灯火器というより日本文化を代表する存在でありつづけているものだ。しかし、江戸時代には、俳句には盛んに登場しながら、和歌には登場していなかった。音読みが、和歌の世界では敬遠されたからだろうか。そういう和語、漢語の使用という点からも、この信綱の歌は、画期的なものではあるまいか。ちなみに、この百人一首に取り上げて来た歌の中で、音読みの漢語は、十の「衛士(エジ)」と、二八の「(ザウ)」「(シュ)」だけであった。
 なお、用語にこだわるなら、信綱の歌の四句の「野菊」も、提灯と並んで懐かしい日本語だ。言うまでもなく「野」は「の」で和語、「菊」は「キク」で本来は漢語だ。所謂湯桶読みの合成語だが、伊藤左千夫の『野菊のごとき君なりき』を待つまでもなく、信綱はその優しい響きと姿を愛していたのであろう。漢語音の響きと言えば、信綱の代表作「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」の中の「薬師寺」と「塔」の二語も、一首をぐっと引き締めている日本語である。
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三五、かなしきは浅草寺の本堂のとびらしまりて火のともる時
与謝野寛
 「芭蕉の寂は喜ばじ」「われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子」「いたづらに何をかいはむ事はただ この太刀にありただこの太刀に」と、詩歌の大革新を唱えて、いたずらに剣を振った鉄幹にも、こんなおとなしい歌もあったのかとほっとさせられる一首である。
 櫺子窓も瓦灯窓もない漆黒の大壁のような大扉が閉められる浅草寺本堂前の夕景が、虎剣流鉄幹をして、寺の子・人の子寛に帰らせたのであろう。そして、それと同時に、橘曙覧の「たのしみは炭さしすてておきし火の紅くなりきて湯の煮ゆる時」の調べにも温故の気持ちを湧かせたのであろう。
 寛には、この歌の他、「あるときのかの人の頬を見るごとく紅き帷をすけるともしび」など、あかりを詠んだ歌があるが、晶子や茂吉にくらべるとはるかに少なく、他の作品も、鉄幹の下に参じた晶子、啄木、白秋や、終始対峙した茂吉の陰に隠されて「すけるともしび」的存在になってしまっているようだ。
 さて、浅草寺と言えば、誰でも、雷門、宝蔵門、本堂そして二天門にぶらさがる四大提灯を思い浮かべることであろう。提灯が一寺のシンボルを越えて、古き良き日本の観光スポットとして、海外からの旅行者にも仰ぎ見られている光景は「うれしきは浅草寺の提灯を世界の友らとくぐりゆく時」と、興じたくもなる情景である。
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三六、窓の灯の油のつぼの小ささなる波みて秋の夜を更かしたり
与謝野晶子
 三五の歌と比べて、こちらは素材の面からも、その歌格の点からも、まさしく画期的な歌である。
 晶子には、この他に
 ・いさり火は身も世も無げに瞬けり 陸は海よりも悲しきものを
 ・牛つれて松明したる山乙女 湖ぞひゆけば家教へける
 ・燭さして赤良小舟の九つに 散り葉のもみぢ積みこそ参れ
 ・夜によきは炉にうつぶせるかたちとぞ とほきおん人のものさだめかな
 ・炉にむかひ鼓あぶりてものいふを 乙女と誉めぬわれいつく母
 ・梅幸の姿に誰がいきうつし 人数まばゆき春の灯の街
 ・春の雨障子のをちに川暮れて 灯に見る君となりにけるかな
No.36などなど、あかりを詠んだ歌は多く、その対象把握と調べの確かさに、今更ながら驚かされる。
 さて、灯火器の大革命であった石油ランプが日本にもたらされたのは、横浜開港の安政六年だとされているが、国産のランプが製造され、一般に普及したのは明治二十年代のことのようである。「蝋燭何十本分のあかるさ、ほつれ毛一筋をも見あやまることなし」ともてはやされた炎とともに、透明ガラスの油壺や火屋の美しさは、当時の人々に新時代の到来を実感させ、「秋の夜を更かしたり」の晶子の歌もまた、広く共感を呼び、もてはやされたのであろう。
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三七、川むかひの山ふところや夕されば灯はともりたり家あるらしも
相馬御風
 この歌は何故か、バガボンドの「谷間の灯」とともに、敗戦直後の青春時代を思いおこさせる歌だ。それまで「海ゆかば水づくかばね・・・」「今日よりはかえりみなくて大君の・・・」などと歌わされて来た身に、古本屋で求めた改造社版の『現代日本文学全集第三十八編』の「現代短歌集」で読んだこの歌は、新鮮なものとして焼きつき、私を短歌の世界に導いたものの一つでもあったようである。しかし、御風も歌も、戦後の昭和二十八年筑摩書房版『現代短歌集』には見当たらなかった。
 御風は、あえて言うまでもなく、三木露風、野口雨情らと、早稲田誌社を起こして、詩歌の革新を唱えた一人であったが、
 ・ころげよといへば裸の子供らは 波うちぎはをころがるころがる
 ・つぎつぎに漕ぎいでゆきし海士小舟 つぎつぎに見えずなりにけるかも
 ・大そらを静かに白き雲はゆく しづかにわれも生くべくありけり
 ・わがふきし煙草のけむの行く末を けさしみじみとながめたりけり
 ・停車場のストーブ囲み十ばかり 藁沓が白き湯気たててゐつ
などの歌のように、時には良寛の如く自在で、時には茂吉の如く純然として、今読み返しても、その新鮮さは消えない。なお最後に挙げた停車場の写生歌は、用語の上からも記念とすべき一首であろう。
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三八、寝静まる里のともしび皆消えて天の川白し竹藪の上に
正岡子規
 私が定住の地と定めた日下部の里も、東には勝沼ぶどうの丘センター、西には笛吹川フルーツパーク、南には石和温泉郷が夜もすがら灯を点し合い、新日本三大夜景の里としての名を広め、この歌のような情景は、もはや望むべきもないものとなってしまった。
 でも、歌の世界は、この歌のような虚飾を捨てた率直な写生歌が、子規没後百年、再び本流となってきているようだ。
「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」
と断じて、万葉集の真摯素朴を範とした写生道を唱えた子規には、この歌の他にも、あかりを詠んだ歌は少なくない。
 ・都路はともし火照らぬ隈もなし 夜の埃の立つも知るべく
 ・百照らすともし火百の影そひて いつき島宮潮満ちにけり
 ・夜をこめて物かくわざのくたびれに火を吹きおこし茶を飲みにけり
 ・ともし火の光に照らす窓の外の牡丹にそそぐ春の夜の雨
 ・ガラス戸の外の月夜をながむれど ランプの影のうつりて見えず
 ・紙をもてランプおほへばガラス戸の外の月夜のあきらけく見ゆ
「紙をもて」と同じ心情を、「ランプ消し行灯ともすや遠蛙」と俳句では表現している。興がのれば、ランプのシェードに俳句を墨書したと伝えられる子規ではあったが、ガラス戸越しに夜の庭を眺めたり、蛙やほととぎすの声に声を傾けるのには、ランプは明かり過ぎると感じていたのであろう。
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三九、観音をきざむ仏師が小刀の光もさむき燈火のかげ
落合直文
 この歌の結句の「ともしび」は、朴の燭台に突き立てられた和蝋燭ではなかったろうか。
 さて、この歌の三句の「小刀」は「こがたな」だろうか「セウタウ」だろうか。「クワンノン」「ブッシ」の緊張した声調で締めるなら「セウタウ」と読みたいところだが、結句が「蝋燭(ラッソク)」でも「トウクワ」でもないので、やはり「こがたな」なのだろう。
 直文は、明治二十六年、あさ香社を創立、和歌改良運動を起こし短歌革新の先駆者として現在も高い評価をうけている一人であるが、作品は、浅嘉町に馳せ参じた鉄幹のように猪突猛進することはなく、漸進的、折衷的であった。しかし、この歌の「観音」「仏師」のような当時日常語になっていた漢語を自在に歌ことばとして活用したり、
 ・町中の火の見やぐらに人ひとり火を見て立てり冬の夜の月
のように、「耳にて聞くべき調べ」を強調し、子音配列・母音配列による日本語特有の押韻や、五音・七音を二拍・三拍・四拍のリズムとして捉えた声調論に基づく歌を実現した功績は、やはり現代短歌の革新者として位置づけてよいであろう。
 引用の「火の見やぐらの」の歌は、三三で触れた信綱の
「ゆく秋の大和のくにの薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の歌とともに、時折口ずさんでみたい歌だ。
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四十、軒先の岐阜提灯に火ともりて庭のうち水光なまめく
武島羽衣
 羽衣は、明治三十年、直文、信綱らと新詩社をおこした一人であるが、例の昭和二十八年刊行の『現代短歌集』からは抹殺されている。女子大生相手の日々が、「目に見る趣向」に甘えさせたと見られたからであろうか。しかし、燈火の歌には
 ・夕月のくまともならで涼しくもななめになびく軒のかやり火
 ・花道のよきところにてともし火の映えし保名の狂乱の顔
など、貴重な素材を捉えた作が残されている。
 「花道」の歌の「ともしび」は、長い柄の先に取りつけた升形の台に蝋燭を立てた舞台用の所謂「面あかり」であろう。鳥居清貞画「大江戸しばいねんぢうぎゃうじ」では「差し出しかんてら」とも言われていたことも知られる。安部保名が榊の形見の小袖を抱いて狂いさまよう歌舞伎のクライマックスシーンを、かく鮮明に詠み残してくれたことは得難いことである。
 さて、表題の歌の「岐阜提灯」は、灯火器というより美術品としても世界に誇りうるもので、結句の「光なまめく」は、安易な形容でも誇張でもない。提灯にはこの他に、三三で触れた弓張り提灯、三五で触れた吊り提灯、ぶら提灯、箱提灯、小田原提灯、馬上提灯、ほうずき提灯、知覧提灯、団子提灯、高張り提灯、ふぐ提灯、蔵提灯、金網提灯、自転車提灯、ねぶた提灯、金魚提灯、ふぐ提灯などなど、その種類だけを挙げてもページがうずまってしまうほど多彩である。しかも、今またあらたに光源を電灯に替えた提灯が、愈々益々、もてはやされていることは頼もしい限りである。

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