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四一、十一時街はいねたり青やかに雪ぞよこぎる瓦斯の灯のまへ
尾上 柴舟
 ガス灯が我が国でともされたのは明治五年、横浜の外人居住区のそれが最初だという。次いで明治七年、東京の芝の金杉橋から京橋までの表通りに八十五基がともされた。ガス灯は文明開化の象徴として大歓迎を受け、やがて浅草まで伸びたのだが、ガスの供給ができなかった地区では、ガス灯と同じ形の街灯を立て、中に石油ランプを点して、それもガス灯と呼んだようである。
 明治十一年に銀座に点されたアーク灯がわずか数年で白熱灯に取って代わられたのに比べて、ガス灯のほうは大正の大震災まで灯し続けられていたとのことである。ガスの燃える明かりが、アーク灯のように鋭くなく、その青やかな光が日本人の情緒に合っていたのであろう。
 柴舟には、この歌のほかに
・蒸暑く閉じたる部屋の瓦斯の灯に検温器見る夏の夕暮れ
がある。ガス灯が室内にまで及んだのは、明治十六年の鹿鳴館が最初のようで、一般の家庭に灯ったのは東京ガス会社が設立され配管を進めるようになった二十年以後のことであるという。しかし、此方のほうはランプほどの普及はなく、やがて電灯に取って代わられたのである。
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四二、枕べのともしびきえて手さぐりに薬のむ夜のさびしくもあるか
金子 薫園
 この歌の作られた明治三六年、当時の新聞は、薫園の住んでいた今の千代田区界隈では、電(気)灯が瓦斯灯を押さえて普及するようになったと伝えている。しかし、当時の電灯は、定刻定額制で、行灯やランプのように点したいときに点すというわけにはいかなかったのである。薫園のこの歌の「ともしびきえて」「さびしくもあるか」には、そんな紐付きの電灯生活に対する思いが伺えよう。
 昭和になってから薫園は、新短歌習作と称して、自由律短歌に挑戦したが、
・停電 ―― 長い停電だ、月光に照らされて寝たまま死んでゆくのではないか
とも詠んでいる。まだまだ
・笹がくれ聖霊棚に灯ともりぬ母も祖母(おほはは)もいまおはすらむ
・京なまりかろくすべりて水茶屋の提灯の火の紅き夕暮れ
・あかつきの秋の外の面の光はもらんぷの銀に白く浮うかべり
と、蝋燭やランプの魅力からは離れられなかったようだ。
 今や照明と言へば電(気)灯一辺倒(灯)となり、もはや「われにそむかぬ友どち」とも「私のともしび」とも詠まれることは望むべくも無いのであろう。
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四三、すさまじくみだれて水にちる火の子鵜の執念の青き首見ゆ
太田 水穂
学生の頃、『潮音』に入社し水穂に学んだ菱川善夫は、三省堂『現代短歌大事典』で、水穂の代表作としてこの一首を挙げ「鮎を追う鵜飼いの鵜の執念に目をすえた作品。場所は宇治川。水に散る火の粉と、鵜の青き首の対比もあざやかだが、この感覚連合が効果的に照らし出しているのは、生き物の根源に潜む「執念」 のすさまじさである。もちろん人間も同じ。その本能のカを、幽玄な美としてとらえたところに、芸術的志向の高さをみることができる。」と解説している。
 また、水穂の養子となり『潮音』の改革につとめた太田青丘は、筑摩書房の『現代短歌集』の太田水穂集に
・くれのこる苗代小田のひとところげんげのなかに灯のともる家
・火鉢二つ炭をあかあかと入れられてすでに落ち着くたたみのうへに
・囲炉裏辺に火を焚くまにも火箸もて灰かきあそぴ字を教へにし
・すみぞめのタベとなれば灯をともす椎木がくれのわれの小廂
・おのが灰をおのれ被りて消えてゆく木炭の火にたぐへて思ふ
などの灯火の歌を選出している。浪漫派にも、写実派にも対抗するなかにあっての感覚連合の妙は、その歌誌『潮音』とともに今も尚生き長らえているのだ。
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四四、鴻巣の提灯あかき雪の日の南伝馬町をわが行くゆうべ
前田 夕暮
 鴻巣は、かつて中山道と日光裏街道の分岐点の宿場として賑わった町で、荒川の水運も加えて伝馬屋が軒を連ねていたという。大正の頃もまだ赤い提灯を掲げていた家が多かったのだろう。
 赤提灯と言えば、今では一杯飲み屋を連想するのが普通であるが、信馬業を受け継いだ逓信省関係は、ポストも、電報配達用の弓張長提灯も赤であった。ちなみに明治五年六月の太政官布告には「無提灯にて夜行禁止の儀、去る二年十一月布告せし処、自今無提灯にても往来苦しからず、但し車馬等は従来の通り提灯用うべく侯事」とある。
 提灯は、永禄元年の「信玄公意見九十九ヵ条」の中の「不断不可燃木桃燈」が文献的には早いほうだろうが、現在もなお使われている息の長い灯火器である。手軽さに加えてデザインの面白さと、家紋や屋号や絵などが自由に描け、CMも図れるという重宝さもある日本を代表する灯火器であろう。
 さて、夕暮は、四二の薫園とともに自由律短歌でも知られているが、晩年の遺詠『わが死顔』の中の
・ともしびをかかげてみもる人々の瞳はそそげわが死に顔に
の一首は、短歌史の上からも特異な存在であろう。
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四五、一つのらんぷのあかりおぼろかに水を照らして家の静けさ
伊藤 左千夫
  前書きに「八月二十六日、洪水俄かに家を浸し、床上二尺に及びぬ。みづく荒屋の片隅に棚やうの怪しき床しつらへつつ、家守るべく住み残りたる三人四人がここに十日の水ごもり。いぶせき中の歌おもひも些か心なぐさめのすさびにこそ」(明治四十年) とある。この時の連作十首の中には、
・灯をとりて外におり立てば濁り水動くが上に火かげ漂ふ
もあるが、「いぶせき中の歌おもひ」は、水ごもりの仲間の人々の心をも静めたことであろう。
 左千夫には、「世の中の歌を大いに新しく起こさむ」と、子規の門をくぐった翌年、明治三十四年に灯火の歌が三首ある。
・雨の夜の牡丹の花をなつかしみ灯し火とりていでて見にけり
・ともし火のまおもに立てる紅の牡丹のはなに雨かかる見ゆ
・さ夜ふけて雨戸もささずさ庭べの牡丹の花に灯をともし見つ
 この一連は、子規の「ともしびの光に照らす窓の外の牡丹にそそぐ春の夜の雨」に習っての作であるが、子規の唱える「写生」を、ひたすらに実践している真摯な態度があふれている。こうした一途な修業があったればこそ、後の左千夫、後の 「アララギ」が造られたのである。
 ところで、表出の二句の「らんぷ」という外来語のひらがな表記も注目すべきものであるが、斎藤茂吉が、その著『伊藤左千夫』の中で、「らんぷ」の歌とほぼ同じ頃の「み灯霞む鹿苑院の沈の香や山ほととぎす閣近く鳴く」などの歌を評して「固有名詞、漢語などを自由に駆使して、新しい歌境を現出せしめて居る。この種の漢語さへ、同じ陣営にあって非難するものも居た程である。」と述べていることは、興味深いことだ。
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四六、朝の雪。\出勤前の二時間の、\暖炉のまへの、しづかなる心。
土岐 善麿
 「沈」や「閣」の漢語さえ非難されたという時から間もなくこの歌は発表さている。漢語の駆使など朝飯前で、句読点を入れ、一首は三行書きにされていたのだ。
・むすめよ。\この黄昏の落葉を父は焚くべし\燐寸(マチ)をもてこよ。
・ものいふを、損するごとく、\おほぜいの人のうしろに、 \火にあたりゐる。
・ほっかりと、この\輪転機のぬくみの懐かしさよ。\あすの新聞に灯のともる時。
などという善麿の試みは、啄木などにも影響を与えたものだが、晩年の
No.46・電光ニュース読まむとしつつ炎天の雲の反射に瞳さだまらず
・この深夜独房の窓の黄なる燈は一つ一つ遂に七つ消えたり
・椎わか葉あふり燃えたつ焔のした逃れし夜半を幻党とせむ
・春の夜のともしび消してねむるときひとりの名をば母に告げたり
そして、
・あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさぴしげにいふ
などなど、優れた言語感覚と時代認識をもって、歌言葉と、短歌の視界を飛躍的に豊かにした善麿は、まさしく近代短歌の灯だったといえよう。
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四七、川波の闇き下瀬に流れ継ぐ萬燈はいかになりをはるらん
臼井 大翼
 この歌の前に
・夜闇き水の面に映りのびて流燈の火村つぎつぎきたる
があるので、「萬燈」は「流燈」つまり灯籠流しの燈であろう。
 大翼には、この萬燈や流燈の他
・軒燈にけふの燈はやし揺れやまぬ笹葉の注連に風たつらしも
・帰路は夜となりゐて減燈の巻の上に月さしにけり
・夕立雨降りあがる庭の青葉雫あかるきなかに電燈つけり
・そこはかと裸電球の照りこもる夜の青葉なり兵等伍を解く
・霧ふかき海のゆふべの空を掃き燈臺光ぞ旋りそめたる
の歌に見られるような軒燈、減燈、電燈、裸電球、燈臺光等の漢語(軒燈はのきトウ、裸電球ははだかデンキュウと湯桶読み)の灯火の関係用語が少なくない。「減燈」は昭和十年代の燈火管制のことで、
・灯の下にすわりてきけば兵おくる遠き夜ごゑはいたくさぶしも
と、極力漢字を押えて詠んだ歌とともに見過ごせない一首だ。
 さて、萬燈という語は、薬師寺、東大寺、高野山の万灯会などで古くから知られて来ているが、流燈つまり灯籠流しの方は、案外歴史は新しく、専ら盂蘭盆の精霊送りの行事として、各地の港湾・湖沼・河川でいよいよ盛んになってきている。しかし、盂蘭盆ならぬ八月六日のヒロシマ元安川の流灯と八月九日の長崎平和公園の万灯は、単なるイベントとして点したくはないものだ。
 ところで、表題の歌は、大翼の第一歌集『私燭』所載の一首だが、「紙燭のような微かなあかり」のつもりだったのだろうか。ともあれ大翼が橋田東聲とともに点した「覇王樹」の灯は、大正、昭和を越え、平成の今も点し継がれている歌壇の一灯台光である。
No.47
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四八、せんだん の ほとけ ほのてる ともしび の
    ゆらら ゆらら に まつ の かぜ ふく
會津 八一
 表記法も独自の世界を貫いた八一の初期の一首である。あえて漢字をあてれば「梅壇の仏仄照る灯のゆららゆららに松の風吹く」となろう。「せんだんのほとけ」は梅壇の香のする仏で、この歌の仏は唐招提寺の開基である盲目の鑑真和尚像がほのぼのと目に浮かぶ。
 また、「ともしび」は、その後の「ゆららゆらら」から和蝋燭の炎が彷彿とする。和蝋燭は、『ロウソクの科学』で、「これは日本からとりよせられたものであります。このロウソクにいちじるしい特徴があります。それはすなわち、穴のあいた芯をもっていることであります。これはアルガンが石油ランプに応用して、その価値を高めた見事な工夫と同じものです。」と、ファラデーが紹介しているように、藺草の芯を巻いた和紙の筒の芯は、蝋燭の下から内側にも空気を送り、アルガンランプを越えてもてはやされたレーヨン空気ランプ以上に、風が吹けば、いよいよゆららゆららと炎をあげる蝋燭である。
 さて、八一の歌について斎藤茂吉は「万葉調なるをもって特色とするが、ただ古調のこつこつしたもの、乾燥し果てたものとは趣を異にして、その声調流動し、新鮮な果物の汁のごときものを感じせしめる。」と述べているが、晩年の
・ひと の よ の つみ と いふ つみ の ことごとく
   やき ほろぼす と あかき ひ あはれ (高野山明王院)
・ひともと の かさつゑ つきて あかき ひ の
  もえたつ やど を のがれ ける かも (東京空襲)
など、その一滴一滴は舌頭をくすぐるものがある。
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四九、すすけたるらんぷの下にあつまりて親子さびしく夕餉食すらむ
橋田 東聲
 「すすけたるらんぷ」と言えば、無精な書生暮しか、火屋の掃除も忘れるほど落ち込んだ家庭を示すのが当時の常識であった。この歌の場合は「同じ年に両親に別れ二児を哀ひ残る一児を慈しみつつふるさとの森の家に悲しき日を送るあはれなる兄に」という前書きと
・炉の中の栗の焼くるをまちかねて火をいぢるらむ心せよ児に
などの歌が添えられている。
 ランプは明るく美しい灯火であったが、それだけにガラス火屋の煤けは気になるものだったようで、当時の小説やエッセイには、少年時代の火屋磨きのことが頻りに登場する。しかし、このふるさとの兄の家からは火屋磨きをする少年が次々に亡くなっていたのだ。
 東聲には、この他、あかりを詠んだ
・灯の入りて何か悲しき膳所の町妻もろともにつかれてかへる
・やうやくに火を移したる蝋燭の灯かげあやふしひまもる風に
・家をめぐり蛙なく夜のなやましさ灯を点すさへ悲しかりけり
・つぎつぎにみな死にゆきし家に帰り洋燈(らんぷ)をとぼすタベ寂しも
などの歌が残されているが、いずれも寂しく悲しく、東聲自身も四十五歳で他界している。しかし没年まで主宰した「覇王樹」は、八十巻を越えて今も健在だ。
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五十、冬野吹く風をはげしみ戸をとぢてはや灯をともす妻遠く在り
島木 赤彦
 下諏訪の赤彦記念館に展示されている赤彦自筆の短冊の歌。署名は柿の村人。校長として東筑摩郡広丘村に単身赴任した明治四十二年の十二月ごろの作品だとのことである。赴任当時の書簡には「精神范乎として何も手につかず。火鉢に対してたばこを吸うのみ」とも見えている。が、下宿先の「牛屋」は村の一二の旧家で、校長の部屋は八畳間二間続きの上座敷が代々当てられていたという。近くには太田水穂の家もあり、太田喜志(若山喜志子)や中原静子は広丘小の教師をしていた。そんな環境のなかで、「牛屋」の上座敷は「比牟呂」の編集発行所となり、歌話・歌会の会場となり、やがて伊藤左千夫も訪れ「比牟呂」と「アララギ」の合併が決まり「広丘アララギ歌会」も開かれた記念の場所である。
No.50 赤彦記念館所蔵の明治三十九年中央線開通当時の鉄道情報には、東京飯田橋より下諏訪までは約九時間、下諏訪より塩尻までは約一時間と記録されている。広丘は塩尻で篠ノ井線に乗り換えて次の駅だから、下諏訪から広丘までは通勤可能範囲になったのだが、癖村の小学校にも教育勅語と御真影を納めた奉安殿が設置され、校長は一旦緩急有れば即対応出来る場所に起居を義務づけられていた時代であった。
 ところで、第四句の「灯」は、塩尻短歌館の調査では、まだランプの灯だったとのこと。しかし、このランプは、四九のランプとは違って、「牛屋」の人が、歌人校長の為に心を込めて火屋磨きをした「透き通るランプ」だったに違いない。
 ともあれ、この歌の詠まれた塩尻市広丘の「牛屋」も、赤彦の妻の在住していた下諏訪町の久保田家(柿蔭山房)も、ともに市・町の文化財として大切に保存されている事は流石だ。
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五一、おほははがみ面の皺目榾の火の赤き焔にあかりておはせり
由利 貞三
・榾火にあぶるおほははの膝こぶしいつも火形の赤くつきゐる
・炉がたりに囲む榾火のしづかなり焔に心の青く立ちゐて
・老い呆けしおほははのみ面あはれなりまなこは涙なくして泣けり
などとともに詠まれた連作「祖母の歌」の中の一首である。
 あかり専用ではない囲炉裏の歌を、灯火百人一首に大分選んでしまったようだが、やはり、囲炉裏の火は灯の原点であり、人類が定住生活を始めた何十万年前から現在まで灯し続けられている灯火の本家である。万葉東人の様に葦を焚いても、一茶のように落葉を焚いても、観光用古民家のように太薪を点しても、囲炉裏の火は、やはり、人々を明るく暖かく照らして、親しさと安らぎをもたらしてくれるものだ。
 貞三の連作の中の「榾」という薪も、「あぶる」という仕種も「炉がたり」という心の交流も、私自身の思い出とも重なって共感この上なしである。
 なお、この一連の歌は、我々を民俗の世界にも誘ってくれるのだが、「老い呆けし」は、歌ことばを期せずして広げた用語で、釈迢空の「老い漂零(さすら)へむ」の先駆とも言えよう。
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五二、軒灯の灯かげ灯かげに雪のふり行く人あらず夜の大路に
窪田 空穂
 灯かげ灯かげに雪のふり は、さすがな情景描写だ。
 軒灯は、街灯のガス灯を真似て作られたランプ灯で、配管や配線の必要がなかったため、明治二十年代には東京ばかりでなく、地方都市にも爆発的に普及したようだ。当時のブリキ職人の腕の見せどころで、今でも古い旅館や遊郭の軒に残っているのを見かけることがある。
 空穂には、この歌の他、
・アーク灯高く照るところ夜の雪湧きて乱れて狂ひて隠る
・家めぐり松風の音もの深しスタンドの灯の枕を照らす
・落葉焚く火もて焼きたる大き薯顔よごし食ふ娘と我と
・山小屋に焚く青松のけぶる火に寄りゆきて冷ゆる手をかざしたり
・家の内の灯は消せと鋭声して暗き門より人警しむる
・夜の灯の明かりに寝ぼけし幼雀部屋に入り来て驚き惑ふ
・一つ灯の光さし来て雨たもつ枳殻の葉の闇に真青なり
など灯火を詠んだ歌が少なくない。そのどれもが、構えの無い生活実感を詠んだ写生歌であるが、おのずから時代の流れや、自然と人との関わりを確かに捉えている。
 大正三年に空穂が創刊した歌誌「国民文学」は、その名のとおり、短歌をより多くの国民のものとし、現在も脈々と継続しているが、やはり、空穂の構えの無さが、代々の選者や地方委員に受け継がれているからであろう。
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五三、日の暮れの暗き廊下を下碑がはこぶランプのかげうつりくる
酒井 広治
 ランプは、置きランプだろう。メードさんもきっと若くて美しい人だったろう。「はこぶランプのかげうつりくる」には、新時代の灯火器の到来への喜びも伺える。
 ランプの到来と言えば、芥川竜之介の『雛』の一節≪しかしその晩の夕飯はいつもより花やかな気がしました。あの薄暗い無尽灯の代はりに今夜は新しいランプが輝いてゐるからでございます。兄やわたしは食事のあひ間も時々ランプを眺めました。石油を透かした硝子の壷、動かない焔をまもった火屋、さういふものの美しさに満ちた珍しいランプを眺めました。「明るいな。昼のやうだな。」父も母をかへりみながら満足さうに申しました。「眩しすぎる位ですね」かう申した母の顔には殆ど不安に近い色が浮かんでゐたものでございます。「そりやあ無尽灯に慣れてゐたからだが一度ランプをつけちゃあ、もう無尽灯はつけられない。」「何でも始めは眩しすぎるんですよ。ランプでも西洋の学問でも・・・」兄は誰よりもはしゃいで居りました。「それでも慣れれば同じ事ですよ。今にきっとこのランプも暗いと言ふ時が来るんです。」≫が連想される。
 引用文の中の「無尽灯」は、江戸時代の末、田中久重が考察した灯火器で、種油を空気圧で高い台の上に送り、洋ランプの様に灯す画期的なものであったが、高価なこととガラス火屋に燃焼効率を高める工夫が欠けていたため、ランプの到来とともに、仕舞込まれてしまったものであった。
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五四、軒雫おほまがさびに落ちゆらぐ秋海棠に灯をともしけり
岡 千里
 明治三十六年に甲府まで、三十九年には塩尻まで、中央線が開通。それに伴って東京と山梨・長野との交流は、俄かに盛んになっていた。歌壇においても、前田晃が東京に出て、先に長野を発った窪田空穂の『国民文学』の創刊に関与したり、東大を出た三井甲之が 『馬酔木』を経て 『アカネ』を創刊したりしていた。一方その甲之と袂を分かって『アララギ』を創刊した伊藤左千夫は、山梨の岡千里や長野の島木赤彦を、足しげく訪ねている。
 「軒雫」の歌は、その『アララギ』の五巻一号に、左千夫選で載った一首で、左千夫からの称賛の葉書も受けたものであるという。それからほぼ半世紀後の昭和三十四年、山梨アララギ会の機関紙『山梨歌人』の創立十周年記念行事の一環として、この歌の歌碑が千里の里牧丘町に建てられることになった。しかし、「おほまがさび」という用語について、「与謝野晶子の歌にも≪売りし琴にむつびの曲をのせしひびき逢魔がときの黒百合折れぬ≫とあるが「おほまがさび」という日本語は辞書にもない。」という反対意見があり一時は大分揉めたとのことである。しかし、結局は、アララギ創刊当時のアララギ歌人の気概を示す造語であると集約されて、無事に日の目を見ることになったとのこと。
 なお、この地方に電灯が灯ったのは大正初期なので、この歌の「灯」は、まだランプだったとのことである。
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五五、春の夜の火影おぼめく靄の街、どよみを脱けて添ひたまひける
平野 萬里
 明星派全盛期の明治三十八年の作。No.55その主要メンバーだった萬里の会心の青春の歌だ。青春映画のクライマックスシーンのように、清々しい若い二人が目に浮かんでくる。空想でないデートが叶えられたのであろう。その夜のデートは芝だったか浅草だったか。とまれ、春の夜の靄におぼめく銀縁のガス灯の火影。ムードは最高だったが周りは大群衆。そこを抜けだして暗やみに出ると自然に寄り添って来た君。春の夜、火影、おぼめく、もや、添ひたまふ、と美辞麗句が連ねてあるのに、さほど気にならない青春の讃歌だ。
 さて、ガス灯の光を、四一の柴舟は「青やか」と、白秋は「銀縁の瓦斯の灯り」と表現している。始めは赤黄色の淡いものだったのが、明治三十年代になってマントルがつけられ、当時、急速に普及し始めていた白熱電灯に負けない光を放ったとのこと。
 それにしても、この春の夜の火影を詠んでから幾年も経たず
・石膏の像に似たまふものいはぬつれなしびとをてらす春の灯
・涙あるかぎりを泣きぬ、火なりせばすでにすべてを焼きつくしけむ
・我がいかり風とこそなれ、黄蝋の百万の灯を一時に消す
と、詠まなければならなかった萬里の思いは痛切だ。
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五六、アーク灯ともれるかげをあるかなし蛍の飛ぶはあはれなるかな
北原 白秋
 色彩感覚、時代感覚、対比構成、韻律、象徴性など、やはり白秋ならではの一首であろう。
No.56 「東京銀座通電気燈建設之図」と題した明治十六年の錦絵の説明には「電気灯は米国人の新発明にして、灯火を点ずるに非ずしてエレキ機械を以て火光を発し、その光明数十町の遠きに達し恰かも白昼の如し。実に日月を除くの外、之と光を同じくするものなし」と記されている。アーク灯が当時の人々をどんなに驚かせたかが伺える。
 白秋にはこの歌の他に
・空見ればアークライトに雪のごと羽虫たかれり春よいづこに
とアーク灯を詠んだ歌もある。こちらは昼の実景だろうが、五六の歌は、美的虚構であろう。恰かも白昼の如しと言われたアーク灯の光の中に、しかも東京の中心地の銀座に蛍が飛んでいたとは、どうしてもイメージが湧かないが「反自然主義」「反アララギ」の象徴詩運動を唱えて「日光」を創刊した当時の記念詠ではあろう。こうした眩しすぎるアーク灯と無理やり対比させられたあわれな蛍に比べて、晩年に詠んだ
・昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
の蛍は、心に沁みて消えない。
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五七、提灯は昔ながらにぶらぶらとかうしてゐても過ごせる世かな
竹久 夢二
 大正ロマンの風に乗って、吉井勇の「東京紅燈集」などとともに「絵入歌集山へよする」として新潮社から出された特装本の中の一首。巻末の広告には、同じ絵入りの歌集「小夜曲」が第五版となつているところをみると、当時は歌集のベストセラーが続いたのだろう。 後記には「大方は数週日の間に書いたもので、挿絵はある読者のために描き添へたもので、ある感覚の説明に過ぎない。とある。孤高より読者の為という宣言なのか。とまれ、この「山へよする」には
 ・さあここが観音様だ豪勢な提灯を見よまた鳩を見よ
 ・築地なるルカ病院の窓の灯を数へつつゆきし夏は来にけり
 ・花道の蝶花形の提灯に灯をいるるころぞ都ぞこひしき
 ・誰に逢ふあてもなければ仁丹の広告灯をながめゐにけり
 ・ぽっかりと電気つきしにおどろきぬ何とて我の泣きゐたりける
 ・ぽっかりと野末にひとつ消えのこる朝の灯よ汝も目ざめつらむを
などの灯を詠んだ歌があるが、どれも優しく自由で”ハイカラ”で、確かな画家の目も感じられる。
 現在では歌人としての評価は高くない一人だが、こうした撫肩の姿勢は、むしろ、羨ましい。
No.57
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五八、街なみの露天をかこむ人だかり黙りし顔にただ火は対ふ
四海 多実三
 この火はアセチレンガスの火である。昭和二十年代までは露天といえば必ずと言っていいほどこの灯が使われていた。「ただ火に対ふ」でなく「ただ火は対ふ」と詠んだところにアセチレン灯の明るさが偲ばれる。
 「懐かしい縁日の懐かしいアセチレン灯の臭い(高見順)」、「青臭きアセチレン瓦斯の漂へる中(石川啄木)」のように、その臭いは強烈だったが、カーバイトに水を注ぐだけで発生するガスに点火すれば、明るい灯となり、長持ちした為、縁日の夜店の他、自転車用、夜釣り用など用途も形も多彩だった。
 多実三には、この他
 ・奥ふかき店に灯はつきたまたまに出て来し妻の顔の匂へる
 ・墨すりつつ思ひはなけれ向かひ店の雛の人形に灯のつくを見たり
 ・しらみゆく地上にかそけく街灯のおのれ落とせる朝影さぶし
 ・夜道かけし野菜車の列来たり提灯消してまた曳きゆくも
 ・いそがしくひと日をくらし夕店にあかりをつけて心ゆるぶも
 ・朝早く半戸をあけし薬店薬瓶ふりて灯にすかし居る
など、灯を詠んだ歌がある。「珊瑚礁」「行人」を発行「日光」の同人にもなったが、四海書房の店主として人間味も篤く、平明に、その時代の市井の灯火の実景を写しとった作品が少なくないのは、得難いことである。
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五九、夕ふかしうまやの蚊遣燃え立ちて親子の馬の顔赤く見ゆ
古泉 千樫
 で取り上げた曽根好忠の「蚊遣火のさ夜ふけがたの下こがれ苦しや我が身人知れずこそ」から、ほぼ千年、歌壇も手の込んだ平安朝和歌から、写生直截のアララギ派が存在感を増し、蚊遣火も、「下こがれ」の比喩の具から、周りを明るくする存在となっていた。
 蚊遣火は文字通り蚊を遣るために燃やす火で蓬、麻、椿の落花なとのほか杉の葉、檜葉、鋸屑などが用いられ、萱や榧は「蚊遣り」が、その語源だという説もある。
 さて、千樫は伊藤左千夫の後を受け「アララギ」の編集発行にも携わったことがあったが、やがて北原由秋らの「日光」の創刊にも加わっている。アララギの仲間の長塚節が「斎藤君の歌は男性的で古泉君の歌は寧ろ女性的である」と述べているが、確かに
 ・燭の火をきよき指にておほひつつ人はゑみけりそのつかのまを
 ・世は深し燭を告ぐとて起きし子のほのかに冷えし肌のかなしさ
 ・蝋の火をほのかにともしねもごろにわがひとり寝るこの夜ふけつつ
 ・蝋の火の焔ゆらげば陰のありしみじみとしてひとり寝をする
などその感性は優しく細やかである。表題の歌も「蚊を追ってあげようとおもったのに驚かしてしまってごめんよ」と言う親子の馬への情愛が滲んでいる歌だ。
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六十、われ一人のぼれる山にかざし来し安全灯を雪の上に据う
藤澤 古實
 南アルプスと中央アルプスの狭間の伊那谷に育った古實は、東京美術学校卒業後、島木赤彦の元に起居しアララギ編集に関与するようになり、やがてモデル嬢との事などでアララギから追放されたのだが、その間も山歩きは頻りであった。 この歌は穂高岳山頂での写生というより、只事歌とも取れるが、「ただひとり」「かざし来し」「据う」には古實の自負とも伺える。取分け、夜行登山と言えば松明か提灯が普通だった当時「安全灯」をかざしていたとは、その時の得意満面ぶりも目に浮かぶ。
No.60 さて、その安全灯であるが、私が初めて目にしたのは、数年前、国立科学博物館で開かれた故滝沢寛コレクション灯火器資料展だった。 その解説に拠れば「一九一一年デーヴィーが発明。当時、石炭の採掘坑では照明用の裸火がガスに引火して起こる爆発事故が頻繁であった。この安全灯は炎を円筒形の金網で囲うことで金網を通過するガスを冷却し爆発が起こらないようにした。また、一定の酸素しか供給されない仕組みになっている。」とのことであった。その後、骨董屋などで探したがとこにも無く、半ば締めていたのだが、何と何とふと立ち寄ったホームセンターの登山用品売り場にメイド・イン・タイワンのそれがぶらさがっていたではないか。 形も構造も寸法も、滝沢コレクションのそれと全く同じコピーが。
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日下部あかりの史料館 〒405-0006 山梨県山梨市小原西343 0553-22-4323
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