くさかべあかりのしりょうかん

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     灯火百人一首
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八一、尻黒き鍋つりさげてものを煮る木の葉くべつつ母ぞ親しき
伊藤 生更
 久しぶりに帰った故郷の生家。一人で田舎の家を守っている母。愚痴も零さず息子の為に昼食を用意する母が囲炉裏にくべているのは木の葉だ。作者はこの歌に続けて
○座布団を枕に我は寝転びて母の炊く火の焔まもれり
○松かさは鍋の下にてよく燃ゆる赤き焔を吹き立てながら
とも詠んでいる。木の葉や松笠は、めらめらと焔をたてて良く燃えあがるが、火持ちは極めて短く、絶えずくべ続けていないと、ものは煮えない。
 私も作者と同じ八ヶ岳の南麓に生まれ育った者なので、この辺りで、その辺りの昭和初期の薪を思い返しておこう。その辺りつまり山梨県の旧北巨摩地方ではたきぎという言葉は聞かず、炊事や風呂用の薪は燃しっ木と総称し、上等なものからまきないしは割りっ木ほだ又はそだごくもと呼んでいた。割りっ木は字のとおり松や杉の間伐材の幹を割り揃えたもの、ほだは松や杉などの枝や、林の下刈りの灌木、ごくもは松や杉など針薬樹の葉である。ちなみに広葉樹の葉や枝はかっちきと呼んで畑や田の堆肥にしていた。
 「尻黒き鍋」という初句や松かさの歌から推して、八一の歌の「木の葉」は、庭先に散り積もったごくも混じりの落ち葉だったに違いない。作者は、年老いた母の為にせめてほだでも用意しようという思いより、母の燃やす囲炉裏の落ち葉の焔にこの上ない懐かしさと安らぎを味わっていたのであろう。
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八二、つきにくくなりしライターを二つ持ちライター屋を囲む人の後に佇つ
長谷川 銀作
 喫煙用の点火器としてのライターは、安永年間に平賀源内が、ゼンマイ仕掛けの鉄の衝撃子を火打石の端子に打ち付けて発火し、その火花をもぐさの火口で捕らえて炎にした「莨用点火器」なるものが最初だとされているが、実用品としては、大正になってから本城真玄がアメリカで買ったライターを模して、ベンジンをしみこませた木綿の火口で炎にした「魔法マッチ」が始まりのようである。現在はガスライター全盛時代で、所謂百円ライターでも液化ガスが無くなるまでは「つきにくくなり」ということは少なくなり、デュポンだのダンヒルなどという高価なライターで無い限りライター屋さん(今ではそういう専門店も見かけなくなったが)のお世話になることはなくなっている。とまれこの八二の歌は、ライターがハイカラ男の必需品だった頃の様子を図らずも伝えてくれていて懐かしい。
 銀作には、この歌のほか
○目の前にマッチがありて灰皿の煙草を拾ひ我吸はむとす
○枕辺の灰皿に捨てしマッチ燃え耳の辺りがしばらく熱し
○松の影浮びて光る水のへにすりしマッチの火意外に明るし
などマッチを詠んだ歌もあるが、当時の無産者歌人とは趣きを異にした「おのが姿そのまま」の歌柄の中に、緊迫した世情と庶民の哀歓がしみじみと詠い込まれている。
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八三、あたたかに卓上燈のともりつつ打つ写字音のはやくひびける
鹿児島 寿蔵
 卓上燈とは読んで字のごとく電気スタンドのことだろうが、『大言海』にも『日本国語大辞典』にも見当たらない。子規の「野球」や、茂吉の「逆白波」のように寿蔵の造語だろう。『日本照明器具工業史』では、単にスタンドとして「徳川時代から親しまれてきた灯台や行灯を応用したものと、舶来スタンドと、それにならって造ったスタンドとがあった。いずれもこれらは実用的というよりも、むしろ装飾的なものが多かった。」と解説し、「竹製紙張り」や、銅や陶磁器の台にシルクセードを用いたスタンドの写真を載せている。
 また四句の写字音という単語もパソコンでは即転換の出来ない日本語だが「タイプライターを打つ音」であることは容易に理解出来る言葉だ。寿蔵は紙塑人形の創始者として人間国宝にもなっているが、短歌の世界でも創意工夫を重ねて緊密的確な表現を大事にしたのだろう。また「写字音」と何気なく詠んでいるその文字は、ハンセン病で視力を失った人々のための点字だったのかもしれない。
 初句と結句からは、豊かであたたかく前向きな姿が彷彿として親しい。
 寿蔵には他に
○練炭のじわじわ赤くなりくるを大事なことのやうに今朝もみまもる
などという歌もある。歌人寿蔵も、もっと大事にしたい。
no.83
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八四、ものかげに古ぼけはてたるランプ見て傷める胸の思ひぬぐへぬ
前川 佐美雄
 上の句の「ものかげ」「古ぼけはてたるランプ」からは、明治、大正を、わが世とばかり光り輝いたランプのなれの果ての姿がいかにも痛々しく描写されている。それに対しての結句の「ぬぐぬ」は「ぬぐぬ」のミスプリかと思ったが、そうではなく
no84○燈の下に青き水仙を見つむれどこの気ぐるひのしづまらぬなり
 と同じく、ここも否定のようだ。ひょっとすると、当時なお歌壇の本流を自負していたアララギへの揶揄かなともとれないこともない。前川佐美雄は「モダニズム短歌の旗手として尖鋭で迢現実主義的な歌や、幻想的 虚無的な美をたたえた歌を作った」というのが、世に出ている短歌事典などの定説のようである。確かに若い頃の佐美雄は
○いますぐに君はこの街に放火せよその焔は何とうつくしからむ
 などと迢現実というより、むしろ反社会的な歌を作っている。しかし、戦火の迫った昭和十年代には
○幸福のわれが見たくて真夜中の室にらふそくの火をつけしなり
○らふそくを夜ごとともして起きるのは眠らないため夢見ないため
などと、幽かに揺らめく蝋燭の炎に心を委ねている佐美雄ではある。「幸福のわれが見たくて」「夢見ないため」には、現実肯定の思いが見え隠れしている。
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八五、踏切にせかされとどまりし一隊の兵はみな仰ぐ夜汽車の燈を
齋藤 瀏
 満州事変前の現地従軍中の一首という。荒野を命令のままに夜間強行軍をしてきた一隊の兵達。その前に立ち塞がる夜汽車の燈。兵達はその燈を「みな」「仰いで」いるのだ。文明の燈の中でも夜汽車の燈は人々の心を揺さぶり人々の心に解放感をももたらしてきた最たるものであろう。
 昭和六年に発見され未定稿のまま出版された宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」も、親友の保坂嘉内が語った、郷里の韮崎で甲府盆地から八ヶ岳高原に上る夜汽車を見つめた時の思い出話をモチーフにしたものだという。夜汽車の燈は若者の心を宇宙の果にまで誘ったのだ。
 ともあれ軍人歌人という理由からか、娘の文とは比ぶべきもなく評価の芳しくない作者であるが、この一首は戦争歌という枠を超えて心に響くものがある。
 また、瀏の二・二六事件の獄中歌
○電灯の真下なり牢の夜更けなりわがもつ影の有無を確かむ
○床にうつるわが影法師動かしつつ牢の夜更けをひとり遊ぶも
 などにも、尋常でない人間性と優れた作歌力が認められる。
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八六、いっせいに電燈つきぬ数珠ならぶ数珠屋四郎兵衛の店ぞはなやぐ
橋本 徳寿
 下界は、灯火管制や思想統一や不況の波に打ちひしがれていた昭和九年、霊場高野山では、弘法大師御遠忌千百年記念行事として根本大塔の建立と共に、区画整理事業が行われ門前町商店街が整えられ、街灯も集中管理の電灯になったという。その中心に据えられたのが唐破風屋根二階建の老舗「数珠屋四郎兵衛」だ。店内にも多くの電燈が灯り、商品の水晶や珊瑚などの数珠に映えて、店そのものが華麗なシャンデリアのように光り華やぎ、高野山名物にもなっている。
○かたはらに物ぬふ子ゐてひとつ燈にもの書きをれば針折れし音す
 という生活から逃れて高野山に上った徳寿の目に、ライトアップされた根本大塔は
○わがまへに根本大塔あかあかと立ちはだかりてありにけるかも
 と戸惑いもあったのだろうが、やはり時流を超脱した華やぎには、しばしの安らぎを覚えたのだ。
 私も平成二十年の夏、観光バスで高野山を訪れて宿坊に一泊した折、この歌のこともあり、灯ともしごろ、門前町から奥の院まで散策したことがあったが、数珠屋四郎兵衛の店の華やぎも、奥の院参道に並ぶ灯篭の灯の趣きも、地球温暖化防止という名の新たな灯火管制、「蛍光灯一色」となったらどうなるのだろうかと、ふと心をよぎるものがあった。
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八七、血みどろになりたるごとく照る波はいづれのビルが投ぐるサインか
岡山 厳
 ネオンサインは二十世紀初頭フランスで開発され、日本では昭和五年、日比谷公園に初めて点灯されたという。ガラス管の両端に電極をつけた放電灯でネオンガスやアルゴンガスや塗料の作用による赤や青や桃色などの光を放ち、昭和十年代には
○街々にあがるネオンは空に融けて船をぞ照らす遠き海まで
○水平線にかくろひゆきし大東京空に一団の光となりつno.87
とも厳が詠んでいるように、東京銀座などの繁華街は、鬼畜ヤンキーのブロードウェイに負けるなとばかりネオンが灯され、いよいよ耐乏生活を強いられていた人々を浮かれさせたのだ。
このネオンと共にサーチライトや電光ニュースも
○四方に向け夜天を射ぬく光芒はときをり白き靄を過ぎしむ
○刻々に大事もたらしこと告ぐるニュースはひるの空を焦がせり
と天を射ぬき、空を焦がして、地方都市にも広がり、人々から静かに考える夜を昼を奪っていったのだ。
 戦後、厳は、木俣修などから「現代の血をもって現代の歌を作れと唱え、全人的ヒューマニズム短歌を試みたが、一面理が勝っていて文学的魅力をもっているとは言いがたい」とも言われている。しかし、エコ、省エネの叫ばれている昨今、並木にまで巻き付けられた電飾や、古城などの文化財のライトアップなどなど厳が生きていたら何と詠むだろうかと、ふと懐かしくなる歌人の一人である。
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八八、自転車のヘッドライトは過ぎむとしたまゆら青し我が白足袋に
杉浦 翠子
 自転車は明治初頭に輸入され、明治二十三年に国産車が作られたという。そのヘッドライトは、先ず夜間の電報配達用の自転車がハンドルの付根に弓張長提灯を掛けたのが始まりで、やがてブリキ製の火屋の前面に凸レンズを嵌めバネ仕掛けで点火点を一定にした自転車専用の蝋燭ランプが普及し、更に自転車専用の石油ランプ、アセチレンガスランプが作られ、一方では「日乾」「マーツ」「ユアサ」「東芝」など懐中電灯兼用の乾電池の電灯も用いられていた。戦後は、自転車の車輪の回転を利用した所謂ダイナモが一般化し、明治、大正、昭和の自転車灯だけ並べても、灯火器の急速な変遷が一目で伺える。no.88
 さて、翠子の白足袋を照らしたライトはこれらの中の何だったのだろう。四句に「たまゆら青し」とあるのでそれはアセチレン灯だったと考えられる。私の史料館にもアセチレンガスの自転車灯は六種在るが、その内、商標らしきものが「BOLA」「GEL」「POINT」と何とか読み取れる三基のそれぞれの火屋の左右にはダイヤモンドカットの青ガラスが嵌め込まれている。ヘッドライトの側面から漏れて、道の端を歩く和服姿の女性の足元を照らす青い光。その当時、「アララギ」批判を込めて主知主義短歌を提唱し「短歌至上主義」を主宰していた高踏派の翠子にも、自分の足元に目を落としたこういう写生の歌もあったのだと思うと何かほっとする。
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八九、柔かい畳がある、火鉢がある、そして何よも明るい灯がある、うれしくてならぬ
渡辺 順三
 プロレタリア短歌の旗手だった順三が思想犯として検挙され、二年間の抑留後に保釈された夜の作。
 この夜順三は
○話すことがあるようでなく、ポカンとして、火鉢の前にいる、妻と向いて
とも詠んでいる。
また、入獄前には、
○一せいに煤煙なびく江東地区の、今日の静けさはいつまでつづく
○大島製鋼、東洋モスリン、小倉石油、江東の空にうずまく煤煙
○冬空をぐーんと突きぬく大煙突の、下の長屋は押しつぶされそうだ
○郊外の青く澄んだ空もここに来れば煤煙に濁り家並みはひくく
no.89とも詠んでいる。
 庶民が、灯火管制と配給制度の下で、炊事の火も儘ならず、木炭焜炉の残り炭も、火消壷に収めて再利用を強いられていた一方で、軍需産業は我が世の春とばかり石炭を石油を燃やし、まさしく民家はその煤煙の下に押し拉がされていたのだ。工場や火力発電所の排煙が公害とされ、地球温暖化の最大の原因として規制されるようになるのは、それからずっとたってからのことであるが、昭和十年代は、その煤煙を否定的に詠むことすら非国民として検挙されていたのだ。
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九十 、信濃よりもち帰りたる石一つ夜ごと灯火の沁みてゆくなり
山下 陸奥
no.90 「信濃より持ち帰りたる石」とは、「ひで鉢」とか「松台」とか「松灯蓋」とか呼ばれていた松を灯す石の台のことだろう。樋口一葉の『ゆく雲』にも「松のひでを灯火にかへて」とあるように、電灯の普及した明治の後半からは貧しい家庭の象徴でもあった。それが昭和十年代の灯火管制や配給制度の世になって再び灯されたのだ。私の生家でも土間の夜なべ仕事には、その「マツデー」が灯され、当時、小学生から急に国民学校の児童になった私も、松の古株を掘りに行かされたものだったが、近くに松根油工場が作られ、持山の松の古株にも「供出」の赤札が貼られていた記憶が今なお生々しい。陸奥には、また
○一包み買い来し木炭の赤き火に手をかざすわれを妻の目守る
○をしみつつ使へる木炭の幾かけは世に美しき火花を散らす
など、当時の庶民感情を如実に伝える作品が多い。
 なお、その当時使われたという、ひで鉢や木炭火鉢の火を瞬時に消すための陶製の「火消し蓋」なるものも、私のコレクションの一つになっている。木炭も蝋燭もマッチも配給でまま成らなかった国民は、一方では、防火、防空の名のもとで、へんちくりんな物を買わされたのだろう。
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九一、信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵
宮 柊二
no.91 昭和十四年頃の山西省における戦場詠。信号弾とは別名照明弾のことで、手近な「広辞苑」にも「空中で炸裂し強い光を発する装置の弾丸。夜間敵状を知るため、また航空機の着陸誘導などに用いる。」とある。この歌の場合の信号弾は、突撃の合図に迫撃砲などから打ち上げられたものであろう。
突然信号弾に照らし出された敵味方の兵。もう狙撃戦も叶わぬ至近距離に対峙していたのだ。それから間も無く「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す」という修羅場に立った柊二だったのだ。こういう過酷な戦争体験を持った柊二は、敗戦後
○くらやみに燠は見えつつまぼろしの「もっと苦しめ」と言ふ声ぞする
○夜半の燠尉となりつつそのそこに朱の篝を恋ほしくとどむ
○自らを慰むるごとくあかあかと燠をおこしで焼酎を飲む
○弧りして椅子によるとき厨べに妻がいく度も燐寸擦る音
○一本の蝋燃やしつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる
○蝋燭の長き炎のかがやきて揺れちるごとき若き代過ぎぬ
 などなど寂寥感に裏打ちされた庶民感情を代表する秀歌を多く残している。
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九二、防空演習の掩蔽灯火はひそやかに円く区切りてわが仕事を照らす
五島 美代子
no.92 斎藤茂吉の「暗幕を低くおろしてこもりたる一時間半もわが世とぞ思ふ」と共に、当時の灯火管制を詠んだ歌の中で忘れ難い一首である。一、二句の時代語を据えた徒ならぬ字あまりもだが、三、四句の定型「ひそやかに円く区切りて」には自ずからなる人間性も滲んでいる。
 ところで、九一の歌の信号弾より遥かに性能の優れた米軍の照明弾やレーダーと、かの非道な無差別爆撃の下では、民家の明かりなど、どうということはなかったのだったが、国民を戦時体制に押込めてゆくのに防空演習の灯火管制は格好な手段だったのだろう。
 暗幕、遮光紙、防空笠、燈火管制用電球など、それらは今も戦時下の記念物として骨董市などにも並べられている。
 美代子には、この他
○灯を消せばわれをめぐりて亡き子あり風もひそかに室にかよひて
○手さぐりに母をたしかめて乳のみ子は燈火管制の夜をかつがつ眠る
○乳呑子と百日こもれば小刀の刃にもおびゆるこころとなれり
 など「母の歌人」と呼ばれるに相応しい作品が少なくない。
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九三、芝草におきし蚊やりの一点の火の色すごしサイレンの鳴る
四賀 光子
 蚊取り線香をともしての夕涼みも、のんびりとできない険悪な時勢の緊迫感がすごい。蚊取り線香の、火というよりまさしく一点の燠の明りも、五九の千樫の「蚊遣りの灯り燃え立ちて親子の馬の顔赤く見ゆ」の情緒とは、隔世の感が著しい。
 光子には、この歌の他に
○警報のサイレン鳴りて幾秒時大き満月山をいできぬ
など戦時下のもあるが、戦後の、
○野の上のともし火紅くみなともり今宵の風のあたたかきかも
○窓一つ灯りをみせて雪の夜のおもひもふかく住む隣家かな
○白き鯉灯に集まりて眠りをり暗き方より水の音する
○ともし火の光流るる泉水におぼろに白し鯉の眠りは
などの、穏やかで、しかも象徴的な歌に、より親しみが感じられる。
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九四、誰何せる兵の鋭き声きこゆ蝋をともして夜居るときに
藤原 哲夫
                  
 講談社「昭和万葉集」巻四、「大陸の戦火」より。同巻で支那事変の戦場詠の灯火に当ってみたところ、多くは
○配り来し夕飯遅く敵陣の焼くる火光に透かし見て食ふ
                           浅田末一
の如く、まさしく戦火で、本来の灯火は殆ど九四のように
○敵機飛来を声にわめきて人はゆけ蝋の昏きに物書きつづく
                           結城健三
○内地より便り来たれりと友言へば蝋燭を点け山を下りゆく
                           武内六郎
○土壁に凭れて仮睡する兵たちに蝋の燈いまや消えなむとする
                           鈴木清太郎
NO.94等々蝋燭の明りである。ガソリンの副産物ともいえるパラフィン蝋燭の普及で、安直な光源として戦場でも多いに使われたのだろう。さて、これら戦場での蝋燭の灯は、携帯燈と呼ばれていた陸軍用の燈火器にともされたとのことである。
私の史料館でも、「携帯燈」と記された箱付の、写真のような携帯燈を収蔵している。
八八でふれた蝋燭の自転車ヘッドランプを改良したもので、蝋燭用の灯火器とすれば物理的に実用的に最も進歩したものといえる。
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九五、腕に捲く時計の針もあきらかに立ち添ふ焔真夜の雲焼く
尾山 篤二郎
 昭和二十年三月十日の東京大空襲の夜の実景だ。九四で、敵陣の燃え上がる炎で夕食を食う凄まじさをみたが、その戦火はいよいよ東京の民衆の上にも襲って来たのだ。当時の所謂大本営発表は「本三月十日零時過ぎより二時四十分の間、B29約百二十機主力を以って帝都に来襲、市街地を盲爆せり。右盲爆により都内各所より火災を生じたるも、宮内省主馬寮は二時五十分、其の他は八時までに鎮火せり。現在までに判明せる我が方の戦果次の如し。墜落十五機、損害を与へたるもの約五十機なり。」とのことであった。しかし、篤二郎の時計の針をあきらかにした火炎は十一日の夜になっても鏡まらず、鎮火したと見える焦土も人が入れば髪の毛や衣服が自然発火したという。また「我が方の戦果」も皆無で、
○照空燈に入りし敵機が二分前過ぎたる方位東京は燃ゆ
                            加藤知多雄
の歌のように照空燈は徒にB29を照らし出しても、それまでの空襲で東京の制空権は完全にアメリカに渡り、集束焼夷弾が効果的に作用する低空爆撃だったという。この東京大空襲のあと地方都市も次々に焼野原と化し、やがて広島、長崎のピカドンにいたるのだが、アメリカの齎したこれらの火と共に、大本営発表に象徴される欺瞞も断じて許されるべきものでは無い。
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九六、いささかの愛惜を断ち焚き捨つる万葉代匠記の炎よ赤し
山中 貞則
 これも本来の灯火ではないが心の焦げる炎だ。自から求めて来た人生との訣別の火だ。緊迫した時勢に逆らえず学問を絶ったのは、貞則ひとりではなく
○鉄瓶のたぎるひそかさ夜遅く動員学徒の子の帰り待つ
                     花田慶太郎
○くづれ落つるほだ火のあかり映ろひて吾子のまなこよ淋しかりけり
                     諸根慶子
の動員学徒のように親の願いをも戦争は踏みにじったのだ。
そして有能な若者たちの多くは「聞け、わだつみの声」も残せず散っていったのだ。当時の尋常小学校ならぬ国民学校を卒業して更に進学を許される者は一割にも及ばなかったのだが、謂わばそのエリートの眼も自から輝く光を失っていたのだ。
 その頃、私も片道一時間半を掛けて八ヶ岳高原から甲府に通う学徒の一人だったが、学校より玉幡飛行場の避難格納路の工事現場に動員されていた。上の兄は「陸軍技術将校生徒」としてビルマに、また下の兄は立川飛行機製作所に、姉は沼津海軍工廠にそれぞれ動員学徒として行っていた。当時、持ち山に籠って炭焼きをしていた父に頼まれて、沼津と立川には「チチキトクスグカエレ」の電報を何回か打ったものだった。兄は「孝より忠」に従ったが、姉はその都度帰り、三度目の帰省の折、海軍工廠は機銃掃射を伴った空襲に遭い、女生徒の犠牲も少なくなかったという。
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九七、水漬きたる夜の草原に蟲なけば流民のごとく灯を戀ひやまず
木俣 修
 東京大空襲の頃から日本の防空態勢は無きに等しく、焼夷弾の落下後に空襲警報のサイレンが鳴り響くことも屡で、サイレンが鳴らなくてでも「夜になればあかりを消す」のが普通になってしまったのだ。「流民のごとく」の比喩には、暗黒な国の進路に対して逆らうことのできぬ一文化人の遺る瀬無さと、十年後の修司の「身捨つるほどの祖国はありや」に匹敵する疑念も認められる。
 この暗黒の世を、修はまた、戦地で、内地で
○闇の中を一人ふたりと渡河了へてここの草生に兵は潜めり
○ともしびのなき夜の空をひくく来て沼にし向ふ秋沙鴨のこゑは
○足もとをいましめあへる聲きこゆ暗き小路曲る女子消火隊
○遮蔽幕亡き妻が部屋に引くゆふべおさへかねたるわが涙落つ
と詠嘆落涙し、敗戦後も猶
○遮蔽幕はづせる窓に徹りきてよひよひの蟲のこゑぞ寂けき
○停電を合図のごとくして眠りまだうたがはず村のひとらは
○黒暗に手さぐるごとく生き来しを悔しみはてて今夜ねむらむ
とも詠まずにはいられなかったのだ。
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九八、拳銃持つ兵はわれらを並ばしめ何か言ひつつシャンデリア射落とす
武内 六郎
no.98 シャンデリアは十五世紀初頭、キリスト教の教会や修道院のアーチ型の天井に、十字架型に組んだ腕木の四隅に蝋燭を立てて吊り下げたのが始りだという。その後、腕木は銅製になり王冠型やリング型など多彩になり、蝋燭の数も増え、実用性より装飾性が競われ、光源も石油ランプ、ガス灯、電燈と変わり、宮殿や富裕層の邸宅にも広がり、ステータスシンボルとして、昭和初期には、日本でも華族會舘、兼六園成巽閣、池田大磯邸等々、真鍮とガラス工芸の発達を伴って優れたデザインのものが吊り下げられた。
 ところで、九八の歌の六郎が並ばされたのは、敗戦直後の満州の日本人学校の講堂の様で、その天井にも、大日本帝国の威光を示すシャンデリアが輝いていたのであろう。ソ連の西部の衛星国から駆り集められてきたプロレタリア兵にとって、シャンデリアはまさしくブルジョアジーの象徴として射落とさずにはいられなかったのであろう。駆け込み参戦し、玉音一声武器を捨てた七十八万余の日本人をシベリアに強制抑留就労させたソ連と、その兵のさもしさが今となれば痛々しい。
 なお、シャンデリアの人気は敗戦後も衰えず、昭和三十年頃からの所謂プチブルは、シャンデリアとマントルピースを備えた応接間を持った文化住宅を競って建てたものである。
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九九、焼原のゆふべとなればあかあかと灯こそかがやけ仮小舎ごとに
岡野 直七郎
 「陰鬱さから離れて普遍的な心情を」と唱えた直七郎らしい肯定的な詠みぶりが嬉しい。敗戦直後の東京の焼け野原は
○焼けあとの日の暮れ方に人の住む壕の外にて炊ぐ火が見ゆ
                          関口 登紀
○焼跡にかたちばかりの家ありて洩るるとるしび瓦礫を照らす
                          浦池 広之
などと詠まれているが、その灯火の多くは
○松根の乏しき明りかこみあひ黙して食ひぬタ膳の粥
                          北原 繁一
○靴の紐ときつつゐたるうしろより臘の燈翳しやさしきよ嬬は
                          遠山 繁夫
○花の影うつりあかるむ底冷えの停電の室にらんぷ燃えをり
                          大泉よし子
○停電にもの思ひをれば火鉢の火長押の額のガラスに赤し
                          谷 馨
のように、待望の電燈ではなかったようである。配電設備の復旧の遅れと発電量の不足から敗戦後三年間ぐらいは灯火管制ならぬ計画停電が続いたとのことで、講談社の「昭和万葉集」は
○停電のおほき此の頃古洋燈カンテラなどをひさぐ店殖えぬ
                           草間 雅翠
などという「そうでしたか歌」も収録している。
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百、みじかなる焔燠よりたちをりてこのいひ難きいきほひを見ん
佐藤 佐太郎
 敗戦後一年、昭和二十一年には、日本の伝統文化や日本人の「ものの見方、考え方」の見直しやら否定の動きが起こり、短歌の世界も「第二芸術論」やら「短歌否定論」に揺り動かきれたのだった。しかし、多くの歌人は「短歌には短歌の存在価値がある」として、その価値を実作をもって示そうとした。短歌を近代文学として確立した斎藤茂吉も
○くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ
と、健在ぶりを示し、短歌誌の復活や創刊も相次いだのである。
 また、青年歌人たちによる「新歌人集団」も結成され戦後歌壇の刷新を図った。次の二首は、その代表作として「昭和万葉集」巻末の「昭和短歌史概論」に取上げられている山本友一の作品である。
○蠟涙の赤くし垂るる小机にむかふふたりの時も寡黙に
○油火の微かなる燈のごとくにも守り来し生命はぐくみゆかな
 それにしても、戦後短歌が、伝統的な裸火の灯火に、その思いを託されたという事実はまことに興味深いことである。
 さて、この「灯火百人一首」も、ようやく百首となり、完結ということになった。初めは、私の史料館に収蔵している灯火器の歴史と、短歌の変遷を垣間見ることができればと念じて稿を重ねて来たのだが、やはり、二兎を追うものの感が今更ながらに否めない。
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