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一、灯火の明石大門に入らむ日やこぎ別れなむ家のあたり見ず
柿本人麿(万葉集)
 江戸時代までの歌は原則として「日本古典文学大系」を底本としたが、早速第三句の「入日哉」は、やはり声調上「入る日にか」には従えなかった。
人類が万物の霊長たりえたのは、言葉と火を使う術をもったからだという。一体、人類は何百年前から火を使うようになったのだろうか。ともあれ、洞窟の中の彼らにとって、火は、まわりを明るくし、体を暖かくし、食べ物をおいしくし、猛獣を遠ざけ、害虫を焼き、石を溶かし、泥をかためるなど、時には太陽以上に聖なるものであったろう。
 「ともしび」という語が、日本で使われるようになったのも幾万年前か知りたいところだが、元来は、人間が点した火という大きな意味をもっていたに違いない。それが、やがて「まわりを明るくするために点された火」に固定し、漢字の到来の頃は、燈火、炬火、燈、蜀(留)火、燎火、燭、焼火、止毛志比、等毛之備等々と記され、用例も多く、日常の基本語彙になっている。
 一方、言葉の方も、単なる伝達の手段から昇華して、言葉芸術の詩歌をも生み出し、日本に於いては、語意を超え、この歌の「ともしび」のように、一首の調べを調えるための「枕詞」なるものも持て噺されるようにまでなっていたのである。
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二、見渡せば明石の浦に焼す火の秀にぞ出でぬる妹に恋ふらく
部王(万葉集)
 前の人麿の歌と異なり、明石の漁火は、実景に即していながら、結句の思いを起こす所謂「序詞」となっている。家持の「鮪突くと海人のともせる伊射里火のほにか出でなむ我が下念を」などにも影響を与えている手法である。
 海人のともす漁火は、当時の歌人の歌心を募らせた格好の素材だったようで、
 ・海原の 沖べに等毛之 伊射流火は 明かして登母世 大和島見む
 ・久方の 月は照りたり 暇なく 海人の伊射里は 等毛之合へり見ゆ
 ・海人をとめ 伊射里焚く火の おほほしく 角の松原 思ほゆるかな
 ・滋賀の海人の 釣し燭せる射去火の ほのかに妹を 見るよしもがな
 ・射去する 海人の梶の 音ゆくらかに 妹が心に 乗りにけるかも
などなど、人麿とは視点を逆にしたり、焚きてを詠み込んだり、場所を変えたり、聴覚を加えたり、何とか新たなものをと苦心した当時の歌人が偲ばれる。
 一方、漁火をともすカガリの鉄の籠も、「婦負川の早き瀬ごとに加我里さし八十伴の男・・」のごとく、まさに津々浦々に普及し、「篝」「加賀里」「加々利」と表記されている。カガリは、衣服に香をたきしめるために用いられた籠に由来し、灯火器のカガリは、「爐」「鐃」などとも記されたようである。
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三、旅にあれど夜は火等毛之居る我を闇にや妹が恋ひつつあるらむ
壬生宇太麿(万葉集)
No.3 題詞に「到筑前國志麻郡之韓亭」とあり、天平年間盛んであった遺新羅使の旅の亭泊中の一首であることが伺える。「あおによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく・・」と栄えていた当時は、「大君の遠の朝廷」(三六六八)とも詠まれた停泊地も、朝廷の威光はかくぞ明るく灯ともしていたのであろう。
 しかし、中級官僚の大判官といえども、その家では、日が落ちれば大魔時に従うのが常だったのだ。夜は葦火や榾火の明かりもほどほどにして、火種を灰に埋めて、真暗闇の中で藁筵にくるまったものだろう。もしも、夜遅くまで書をひもどこうとすれば、
 脂膏先尽不因風 殊恨光無一夜通 難得灰心兼晦迹 寒窓起就月明中
 秋天未雪地無蛍 燈滅抛書涙暗零 遷客悲愁陰夜倍 冥々理欲訴冥々
と、菅原道真のように嘆かねばならなかったのだ。
 当時の灯用油のことは、正倉院文書の「胡麻油一斗二升六合。八升四合僧五十六口供養料口別一合五勺。二升八合堂燈料夜別四合。一升四合僧房燈料夜別二合」から、その厳しい一端が伺える。なお、燈芯は、同じ文書の「望陀布一反燈芯用料」から麻布が用いられていたことも知られる。
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四、あぶら火の光に見ゆるわが蘰さ百合の花の笑まはしきかな
大伴家持(万葉集)
 前書きに「同じ月(天平元年五月)九日、諸僚、少目秦伊美吉石竹の館に会ひて飲宴す。時に主人、百合の花蘰三枚を造り豆器に畳ね置きて賓客に捧げ贈る。各々この蘰を賦して作る」とある。貴重だった御殿油も、この夜ばかりはふんだんに使ったのだろう。
 この一首、巻十一の「寄物陳思歌」にある「燈のかげにかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ」には及ばないなどとも言われて来たが、四句迄の具体的な表現から、客の為に心をこめて用意してくれた灯火と百合の花の蘰が目に浮かび、宴の亭主に対する感謝の気持ちと喜びが率直に伝わって来て好感が持てる一首である。 荘重な ますらをぶりもだが、この歌のような明るく優美な歌もあるのが万葉集の魅力だ。
 芥川龍之介の施頭歌「あぶら火の光に見つつ心かなしもみ雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ」は、この歌あっての歌だろう。
 さて、前書きの中の「豆器」は、枕草子に「高杯にまゐらせたる御殿油なれば髪の筋などもなかなかに昼よりも顕詳にみえてまばゆけれ」と記された高杯のことである。大正六年六月、山県有朋が、八十歳の誕生日に、椿山荘に諸僚を招いて飲宴した折に、賓客に「知る人もまれになるまで老いぬるを若きにまじるけふの楽しさ」と添書きした高杯を贈っているが、これも、この万葉の故事を偲んでのもてなしではなかったろうか。
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五、燈火の光に見ゆるさ百合花ゆりも逢はむと思ひ初めてき
伊美吉縄麿 (万葉集)
 四の家持の歌に応じた席詠である。「目前にある百合の花のユリと、後々の意のユリを懸けたまでの歌である。」と、後世の学者には評判がよくないようだ。土屋文明なども「灯の光に見えるこの百合の花のユリのように、後々も会おうと思い始めたものであった。」と、上句を比喩として口語訳し、結句の意味を不分明にしている。
 この歌の二つのユリは、懸詞とか比喩とかいう作歌上の技巧ではなく、やまとことばの意味の広さに肖った作者の持て成しの一つと捉え、「お気に召して頂いたこの百合の花は、後々もお会いしたいと願って思い付き、ご用意いたしました。」と解釈するのが、作者の心情に一番より近いのではあるまいか。
 さて、初句の「燈火」であるが、木の棒を三本結わえて三方に広げた上に土師器の油皿を載せた所謂「結び灯台」が目に浮かぶ。これは室内用の灯台の最も原始的なものと思われるが、後の『貞丈夫雑記』には「これは禁中にて公事を行う時、その司の前に点す灯台なり。丸く削りたる木を立鼓の如く立て、その上にかはらけを置きて油を入れ火をともすなり」とある。また、平安末期に作られた『年中行事絵巻』には、その用いられている様子が描かれている。今のところ木製の三脚の遺品は見つかっていないとのことであるが、土師器の油皿は各地から発掘されている。油の漏れを防ぐため内部に漆や松脂や墨が塗られていたようである。
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六、家ろには安之布多気ども住みよけを筑紫に到りて恋しけもはも
物部真根 (万葉集)
 防人として旅立つ者の感慨が、当時の多摩川河口の生活ぶりと訛言を通して率直に伺える一首である。作者もすでに、遣唐使の停泊地や防人の屯所では「あかり」専用の火が存在することも知らされていたのであろう。そして、その情報が「葦火焚けども」とやや屈折した表現をもたらしたと考えられるが、「ふたほかみ悪しけ人なりあたゆまひ我がするときに防人にさす」のような非難がましい言葉がないだけに、かえって、その思いがしのばれる。
 神代の昔から「豊葦原」と自称していた我が国にあって、葦は、炉を中心に据えた縄文時代から、炊事に灯火に暖房にと、総括的に焚かれて、海浜や河のほとりに住む人々の生活には欠くべからざるものだったのであろう。
 「葦火」は、万葉集二六五一の「難波人葦火燎く屋の酢してあれど おのが妻こそ常めずらしき」の如く、松や樺の焚き火に負けないほど黒煙濛々たるものである。その上、その火持ちは高浜虚子が「忽ちに燃えほそりたる葦火かな」と吟じているとおりで、山村での木の葉や爪木と同様に、甚だ短く、火男お釜女泣かせの燃し木だったようだ。かにかくに、葦火は平家物語の大宰府落に「葦火たく屋のいやしきにつけても」と記された如く貧しさの象徴とも見られながらも、庶民の火として、後々の世まで焚き継がれていたのである。
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七、人にあはん月のなきには思ひおきて胸はりし火に心やけをり
小野小町 (古今和歌集)
 『日本古典文学大系』の頭注には<人にあおうにもその手がかりの無いためには、思いつつ起きていて、胸はいらいらしながら心こがれているという意を、思ひの「火」の関係で「おき」「はしり火」等をからませて表現した。「はしり火」は、パチパチ飛びはねる火。「月」は借字。>とある。北原白秋は『鑑賞短歌大系』で「月は便宜を懸けた。だが、続松のつきなどに関係あるか。」とも記している。No.7
 古今集では徘徊歌としているが、火の縁語を詠みこんだ物名歌とも言えよう。ともあれ、機知の赴くままに縁語を懸詞をと並べたてている点、古今集の技法を伝える代表歌であろう。「人に会いたいと思っても、月も、松明も無い夜は、思いばかりが、火桶の火が赤々と燠るように、胸の中に走り火が駆け回り、心が焼けるばかりです」ということになるだろう。
 火鉢(火桶)を、灯火器に加えることには問題もあろうが、その中の、燠の煽光は平安時代になって、俄かに歌の素材となっている。小町には他に「おきのゐて身をやくよりもかなしきはみやこしまべの別れなりけり」もある。
 本来、回りを明るくするために点されていた火では無いが、それを歌人があかりとして心を動かされ、歌に詠んだものは少なく無い。この灯火百人一首において、火鉢の火の他に囲炉裏火、蚊遣り火、マッチの火、煙草の火なども少なからず取り上げているのはその視点からである。
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八、五月山木の下闇にともす火は鹿のたちどのしるべなりけり
紀貫之 (貫之集)
 七のような言葉遊びは影を潜めて、平明温順で、形象性も確かな歌である。和歌を史的に捉えた文学者貫之らしい歌である。
 ところで、この歌の「ともす火」は、十三の西行の歌の「照射(ともし)する火串の松」つまり鹿狩りの松明のことである。照射のことは十三に譲って、ここでは、先ず松明について述べてみたい。松明は単に松とも、松明かしとも、続松とも、手火とも、更には、とぼし、ひで、やにまつ、わりまつとも言われ、遡ってみると、万葉集にも志貴親王の葬列を詠んだ金村の長歌の結びに「手火の光ぞここだ照りたる」と見える。たいてい「たいまつ」を変換すると「松明」と出てくるが、本来はこの長歌に見える「手火」の松、つまり「手火松」なのであろう。
 材料としては「多肥松」が、用法的には「焚松」「続松」「旅松」が、渡来的には「炬火」「炬」の用字にも捨てがたいものもあるのだが。最後にあげた「炬」は、『神代記』に「炬此云多妣」とあり、伊邪那岐命の「一つ火」の故事から、一本燭しが忌み事とされ、以来、割木を数本束ねて燃やすようになったといわれている。松の丸太一本より、割木数本を束ねた方が燃えやすいのは理の当然ではあるが、松明一つにも有職故事が付き纏うのも日本文化の奥ゆかしさなのであろうか。
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九、蚊遣火のさ夜ふけがたの下こがれ苦しや我が身人知れずのみ
好忠 (新古今和歌集)
 曽禰好忠(そねのよしただ)は、寛和元年の院の子の日の御遊にお召しもなく出席して退場させられた事が今昔物語で知られている人物であるが、歌の方も、古今集的家風を宗としていた当時の歌壇からは異端視されていたようである。しかし、新古今時代には評価も上がり、この歌も選ばれている。この歌の他に、
 ・柴たきていほりに煙立ちみちて晴れずもの思ふ冬の山里
 ・埋み火の下に憂き身を嘆きつつはかなく消えむ事をしぞ思ふ
があり、蚊遣り火の歌と同趣向の、逆境を嘆くものである。
 さて、蚊遣り火は、七の火桶と同様に本来の灯火ではないが、『万葉集』の「あしひきの山田守る翁が置く蚊火の下焦がれのみわが恋ひをらく」や『古今集』の「夏なれば宿にふすぶるかやり火のいつまでわが身下もえをする」や、『徒然草』の「あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり」や、蕪村の「燃え立ちて顔はづかしき蚊遣りかな」の句に見られるように、灯火として捕らえられることも少なくなかったようである。
 蚊を防ぐものとしては、所謂蚊帳も『日本書紀』や『風土記』に見え、古代から用いられて居たことが伺えるが、それは禁中のことのようで、一般的には、草木をふすぶらせたこの蚊遣り火が、長い間、焚かれたのであろう。なお、蚊遣り火の草や台などについては、五十九の歌で触れたい。
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十、みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼はきえつつ物をこそ思へ
能宣 (詩花集)
 柳田国男は『火の昔』の中で「都で言うならば「御垣守り衛士のたく火」という古い歌もあるように御所の御門の番人が火をたきました。「太平記」のころになると、京都の町の辻には四十八所のかがり屋を置いたともあって、そこに番兵が交替で火を守ると同時に市内巡察の役目もしたので、その番兵が持って歩いた松明の火は、すなわちかがり屋の火から分かれていたのでした。」と述べている。
 屋外で焚く灯火は、二で見た漁火や、八の照射とならんで、この歌のような衛士の焚く「かがり屋の火」や「庭火(庭燎、大燭)」がある。庭火は、天岩屋戸の前での庭燎や、甲斐酒折宮の御火焼之老人など、記紀にも記され、その歴史は古い。 そういう太古では、地面か、平らな石の上で松などを焚いたのであろうが、かがり屋の火や、十一の「かがり火」は、その名から、室内の結び灯台の足を鉄の棒にし、上に漁火と同じ鉄の篝を置いたものと考えられる。この篝火は、産育などの公事や、節会、歌合などの記録にも少なからず登場している。
 なお、この歌の衛士は地方から派遣された下級官であったようであるが、甲斐酒折宮の御火焼之老人は「即給東国造也」とあり、かつては火を司る者は、それぞれの地方を司る最長老であったとも考えられるのである。
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十一、かがり火にたちそふ恋の煙こそよにはたえせぬ炎なりけり
紫式部 (源氏物語 篝火の巻)
 この歌の舞台をまず見よう。No.11
 「広ごり臥したる檀の木の下に、打松おどろおどろしからぬ程に置きて、さし退きて、灯したれば、御前の方はいと涼しく、をかしき程なる光に、女のおん有様見るにかひあり。御髪の手辺りなど、いと冷ややかに、あてはかなる心地して、うちとけぬさまに、物を「つつまし」とおぼしたる気色いとらうたげなり。かへり憂く、おぼしやすらふ。「絶えず人さぶらひて、灯しつけよ。夏の月のなき程は、庭の光なき、いと物むつかしく、おぼつかなしや」とのたまふ。《見出しの歌》何時までとかや。燻るならでも、苦しき下燃えなりやと、きこえ給ふ。女君、あやしの有様やとおぼすに《ゆくへ無き空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば》人のあやしと思ひはべらむ事と詫び給へば、「帰はや」とて出で給ふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、笙に、吹き合はせたなり。
 源氏と玉鬘の歌がクライマックスをなし、絶妙な効果をあげている。それに当時の庭火の様子も具で、灯火史の好資料だ。
 今に思えば燈火の煙、とりわけ松の黒煙は厄介物と考えられているのだが、『枕草子』の「さきにともしたる松の煙の香の車にかかりたるもいとをかし」に見るように、意外に「をかしきもの」とされたのは、この源氏と玉鬘のような思いを誘ったからであろう。
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十二、鵜飼舟たかせさしこす程なれや結ぼほれゆくかがり火のかげ
寂連法師 (六百番歌合、新古今和歌集)
 鵜飼いの記事は、『隋書』や古事記にもあり、万葉集にも
・売比河の早き瀬ごとに篝さし八十波伴の男も鵜河たちけり
が見える。律令制下では朝廷の行事とされていたようであるが、平安末期には、夏の夜の風物詩として、各地の武家にも広がり、和歌の格好な題材になっていたようである。
 寂連のこの一首、歌合では顕昭の
・夜河たつ五月きぬらし瀬々をとめ八十伴の男も篝さすはやに「勝」をとられているが、新古今では
・鵜飼舟あはれとぞみるもののふの八十宇治川の夕やみの空
                             慈圓
・大井川かがりさし行く鵜飼舟いくせに夏の夜をあかすらん
                             俊成
と肩をならべている。この百人一首では、初句・三句切れ、名詞止めという新古今集の代表的な声調と、情景描写の鮮明さからこの歌を選ぶことにした。
 鵜飼の篝は、「木曽路名所図絵」などからも伺えるように、鵜飼船の字舳先から伸ばした鉄の吊り棒の先に吊り下げたれた鉄の篝が普通であったようである。普通でないものや、焚いた木については、二五で触れたい。
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十三、照射(ともし)する火串(ほぐし)の松も かへなくに鹿目合はせであかす夏の夜
西行法師 (山家集 )
 四句の古今集的懸詩に拘らなければ、燈火の歴史の貴重な資料である。十二の「鵜飼」と並んで、「照射」つまり夜の鹿狩りは、当時の公家や武家の、夏の年中行事として持て囃され、歌合わせの席題としても少なからず登場している。
 「照射」は、この歌のように、火串の先に刺した松明の明かりで、鹿をおびきよせ、火に光る二つの目の間を狙って矢を射て鹿を討ち取る猟で、火串の他に鉄の篝も用いられたようである。この歌に詠まれた火串は、後世の俳句の「暁は土にもえいる火串かな」(闌更)でも伺えるように竹や木の棒であった。
 照射を読んだ歌の中で、九の「下こがれ」の作者 好忠の
・照射すと秋の山べにいる人の弓の羽風に紅葉散るらし
からは、照射が晩秋まで行われていたことが知られる。
 ところで、西行の歌の「松」つまり松明は、風雨に強く、庭火として、漁火として、また照射の火として、長く広く、灯火の主座に据えられていたものであるが、提灯や行灯が一般化した江戸末の『並山日記』の「初鹿野の村に近づく頃かの案内せし家の主なるべし松をともして迎へに来あひぬ。(中略)この家清くつきづきしくていと棟広くしつらひたるを地火炉のもとにて松のひでといふものを焚きたるいとまばゆきまで輝きたるこそ山里のしるしなりけれ。」の記述は、松明が携行灯としても室内灯としても、いかに重宝がられていたかを彷彿とさせる。後の樋口一葉は「松のひでを燈火にかへて」と貧農の象徴としているのだが。
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十四、思ふどち夜半のうつみ火かきおこし闇のうつつにまどゐをぞする
建礼門院右京太夫 (右京太夫集)
当時の歌の中では、誠に平明で、その場の情景も鮮やかに伝わってくる歌である。題詠の類ではなく、歌日記として、その時その場の感動を詠じた賜物であろう。特に一二三句の具体的表現には、彼女の作歌姿勢も見えて好ましい。
 この歌から思い起こされるのは、『枕草子』の「また、雪のいと高う降りつもりたる夕暮れより、端近う、おなじ心なる人二三人ばかり火桶を中にすゑて物語などするほどに、暗うなりぬれど、こなたには火もともさぬに、おほかたの雪の光いとしろう見えたるに、火箸して灰など掻きすさみて、あはれなるもをかしきもいひあせたるこそをかしけれ」の一節である。清少納言の文も無駄のない表現だが、右京太夫の歌のほうがその場の情景を様々にイメージさせてくれる。短歌の持つ良さの一つであろう。
 ところで、火桶は炭櫃(すびつ)とも呼ばれ、木製の桶の内側に銅のおとしをはめ、中に灰をいれ、炭火を点した手焙りであったが、平安時代には、「枕草子絵巻」などからも伺えるように、豪華な蒔絵などを施したものも作られたようである。江戸時代に入って、陶製のものや、金属製のものや、角火鉢、長火鉢、獅噛火鉢等々が庶民にも出回り、その頃から火鉢と呼ばれるようになったようである。火鉢時代になると、中に五徳を据え、それに鉄瓶を乗せて湯を沸かし、接客にもなくてはならないものとして昭和三十年代頃まで点され続けていたものである。
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十五、須磨の浦に蜑のともせる漁火のほのかに人を見るよしもがな
源実朝 (金塊和歌集)
 これが本当に、
・箱根路をわか越え来れば伊豆の海や沖の小島に波よるみゆ
・大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも
と丈夫ぶりを謳歌し、子規をして「人麿の後の歌よみは誰かある征夷大将軍みなもとの実朝」と詠ましめた実朝の作だとうかと思わせる一首ではあるが、鎌倉時代の歌のありようを示すものとして挙げることにした。
 この歌は、万葉集の『志珂のあまの釣しともせる漁火のほのかに妹を見るよしもがな』をちょっぴり変えただけの模倣歌だ。実朝の万葉ぶりとはこの程度のものだ。」とも言わしめた歌の一つである。しかし、新勅撰や小倉百人一首に選ばれたのは
・世の中はつねにもがもな渚漕ぐあまのを舟の網手かなしも
であったという事実は、短歌の風潮を如実に物語るものであろう。今でこそ、模倣は文学の敵だろうが、当時は古歌や内外の古典に通じ、しかも、それを本歌取りとか踏跡とか称して一首の中に示すことが、教養ある貴人の証拠であったふしもある。また、三代将軍の歌としては、「裂けて散るかも」より「ほのかに人を見る」ほうが相応しかったのでもあろうか。
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十六、うち出す火うちの石のほくそなみなににもつかぬ我が身なりけり
藤原家良 (新勅撰集)
 人類が、火を作り出す方法を知ったのは、何万年前のことか未だ定かではない。しかし、我が国の縄文・弥生遺跡からは、火切り臼と思われるものが、また、古墳時代の遺跡からは、火打ち金が発掘されている。後者の「燧」は、記紀の日本武尊の東征の記事でも良く知られており、甲斐酒折宮の御神体は、その時の「燧袋」であるという。
No.16さて、二句の「火うちの石」は、古来、燧・磬・燧石・火打石などと書かれ、カド・ヒウチカドなどとも呼ばれていた。三句の「ほくそ」は、火打石によって打ち出された燧金の火玉を受けて火種にする物で、普通には、火口(ほくち)と呼ばれている。火朽ち木とか、火糞とか、この語源についてもフワツイている綿屑か炭屑のような代物であるが、燧による発火の成否は、まさしくこの「火口」の優劣に懸かっているため、古くから、朽ち木や草幹や草の葉や草の穂、更には茸、綿、紙などの炭化物や、それに焔硝を加えた物などが工夫され、熾烈な販売競争が続いたとのことである。
 マッチも、ライターも古くなってきた今では「火口売り」は、全く見られないものの一つとなってしまったが、江戸時代から燧金製造を伝える「吉井本家」で、火打金と火打石とのセットで、火口も販売されている。しかし、私の知る限りでは、同じ高崎市の「あかり博物館」の指出館長さんの研究製作の火口が、「朽ち木火口」「綿火口」ともに、一番良く火玉をキャッチして真っ赤な火種にしてくれてうれしい。
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十七、窓の外にしたたる雨を聞くなべに壁に背ける夜半の燈
花園院 (風雅集)
 これは、白楽天の「耿々残燈背壁影齋々暗雨打窓声」を典拠とし、仏具の「三諦一諦三非一の心」を具現したものと言われている。「壁に背ける」は、源氏の「箒木」の巻にも用例があるが、「身近から話して壁の方に置く」ととらえておく。
 ともしびを遠のけてじっと雨の音に耳を傾ける院、戦乱に巻き込まれながら、一層、文学と仏道に己のあり方を求め続けた姿が確かな一首である。院は、「誠実かつ内政的で己を律すること極めて厳しく、世の乱れも天子の徳の不足ゆえと真剣に反省した。」とのことであるが、この歌からもその心情は伺えよう。さて、第二次世界大戦後、南北朝時代の天皇や院や武将に対する評価が自由になたことは誠に喜ばしい限りであるが、日本文学の歴史においても、もっともっと京極派の歌のありようが評価されてもよいのではあるまいか。
 さて、この歌の燈は、二十世紀に描かれた『類聚雑要抄』にみられる所謂高灯台であろう。この高灯台は『源氏物語絵巻』の「横笛」の段にも描かれており、平安時代から禁中などの調度として室内で点されていたようである。基台の形から、菊灯台、牛糞灯台などと呼ばれるものも遺されている。なお、花園院の時代になると「眠り灯台」で知られる上下自在の反射板付灯台も書見用として用いられている。
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十八、さよふくる窓の燈火つくづくと影もしづけし我もしづけし
光厳院 (光厳院御集)
 当時の歌道の宗家の冷泉家から袂を分かった藤原為兼の「対象の本質を捉えて、徒な修辞技巧を排して、心の起るに随ひて詠め」に随い、その上に、伏見院の「雨の音の聞こゆる窓はさよふけてぬれぬにしめる灯のかげ」や、花園院の「窓の外に滴る雨を聞くなべに壁に背ける夜半の灯」をも確かに継承して、その物心一如の歌境は一層澄み透っている。
この歌は、
・心とてよもにうつるよ何ぞこれただこのむかふ灯の影
・むかひなす心に物やあはれなるあはれにもあらじ灯の影
・ふくる夜の灯の影をおのづから物のあはれにむかひなしめる
・過ぎしに世今ゆくさきと思ひうつる心よいづら灯のもと
・灯に我も向はず灯も我に向はずおのがまにまに
との連作の一首である。
日本の歴史上まれな、禁中まで巻き込んだ戦乱の中で、このような静かな心境を持ちえたのは、やはり、内省の具としての短歌があったからでもあろう。それに付け加えるとすれば、日本の皇室の性格だろう。時には大元帥陛下と祭り上げられることはあっても、やはり「影もしづけし」と、自他の平和と融合を願う心は、連綿としてきているのである。
 なお、光厳院が心の友ともした灯火は、十七と同じ高灯台であろうが、その灯台の上に置かれた油皿は、銅や古瀬戸などの灰釉陶器で作られ、同質の受皿の上に重ねて用いられるようになっていた。また灯台の下に敷かれた油単も、黒漆の所謂六花形盆に進化している。
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十九、夜をさむみ衣かたしき独居の床に思ひをおこすうつみ火
武田晴信 (法善寺晴信百首和歌)
 題は「炉火」。「衣かたしきひとり」は万葉集にも先例があり、小倉百人一首にある藤原良経の「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねん」が良く知られている。また、「思ひおこす」は、七の小野小町を思いおこさせる。
 晴信すなわち信玄の歌といえば、新民謡『武田節』にも歌いこまれている「人は城人は石垣人は堀情けは味方仇は敵なり」の方が人口に膾炙されているのだが、このうづみ火の歌は、京を目指した山国の武将の教養の程と人間味が偲ばれて捨ててはおけない。
 捨ててはおけないと言いついでに、この百人一首から、うづみ火にしてしまった鎌倉時代までの有名歌人のうづみ火の歌を、このあたりで起こしておくことにしよう。
・うづみびの下にこがれし時よりかかくにくまるる折ぞわびしき
                            在原業平
・風音もいつしか寒き槇の戸にけさよりなるる埋火のもと
                            藤原良経
・うち匂ふふせごの下のうづみ火に春の心やまづ通ふらむ
                            藤原定家
 ところで、信玄の戦略などを記した『甲陽軍艦』の中の、織田信忠と信玄の息女の婚約の折の進物の「越後有明け蝋燭三千帳、漆千桶」の記録は灯火の歴史上、これまた、捨ててはおけないものであろう。
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二十、もの言はで我にそむかぬ友どちはまくらに近くともすともしび
中山三柳 (秀雅百人一首)
 「秀雅百人一首」は弘化五年に緑亭川柳が選輯、北斎、英泉などが挿し絵を描いている。
 大名侍医の地位みずから辞して醍醐にこもり「もの言わぬ燈火こそ我が友」とニヒる三柳に添えられたのは短檠だ。短檠は、茶の湯の書院での夜咄に使われた燈火器である。茶事の中で最も社交的な夜咄用燈火器、世捨て人。「詩文和歌にすぐれたるはみな淫」「詩文風雅も、もてあそばざるは野にて卑」(『醍醐随筆』)などと時によって矛盾したことを筆にした三柳の矛盾を、一枚の絵に表現したとすれば、当時の画工もなかなかの達者だ。
 さて、短檠には、利休好みと宗恩好みの他、鼠短檠などが伝えられている。柱の上部の灯芯を通す穴の半分から上を切り除いたのが宗恩好みで、この挿し絵の短檠もそれのようだ。
 ついでながら、この『秀雅百人一首』の挿し絵は、農人長助に瓦燈、里村紹巴には菊灯台、松永貞徳に牛糞菊灯台、山崎宗鑑には陶製丸火鉢、小沢蘆庵には茶の炉、芝山元昭には待合行灯等々と添えられていて楽しい。また、近松門左衛門は「残れとは思ふもおろか埋火のけぬまみだるるくち木垣して」が選ばれている。
No.20-1No.20-2
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