
図1は、藤原光成筆と伝えられる兼好法師像です。ここに描かれている菊灯台は、宮中調度を代表するものと言われています。平安時代は、源氏物語絵巻や、枕草子の方弘のことなどからも伺えるように方形の油単などを敷いていたようですが、鎌倉時代には漆塗りの盆に置かれるようになったようです。東京国立博物館収蔵の菊灯台は、京都御所飛香舎のものと言われ六花形漆盆に置かれています。その六花形漆盆ばかりでなく、台座の菊形も、腰をしめた長檠も、端正な灯械も、この肖像のそれは、東博のものと寸分違わぬ形姿です。
田井の草庵に再び世を避けて法衣をまとった兼好が、文机にもたれて上目づかいに見入る典型的な菊灯台。「ひとり灯のもとに文ひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる。」と言いながら、今見る世に、とりわけ宮仕えへの未練を捨て切れない有識兼好の内面を、この菊灯台は切ないほどに象徴しているように感じられます。我ばかりかく思ふにや。

図2は、葛飾北斎の筆になる農人長助です。長助は、室町六代将軍足利義教の試し切りを歌の力で止めさせたと伝えられる小作農歌人です。
長助がうつろに対する灯が瓦灯です。瓦灯は、文字通りの「貧者の一灯」で、土間の夜なべ仕事のこごる手元を照らしあたためた灯火器です。瓦屋さんが内職に作ったと言われる粗製品で、電灯時代に入るといちはやく割り捨てられ、現在ではかえって幻の灯火器と呼ばれて収集家たちから珍重がられています。
私も何とか一点手に入れることができましたが、それは明らかに当時のユーザー自身が泥をこねて作ったもののようです。ともあれ、病いの床にふす老父のために、主家の立稲を刈り盗らねばならなかった長助の冷めた心を、真黒な瓦灯窓から細々ともれるともしびが、はたしてどれだけ温ためえたことでしょうか。

図3は「飛鳥川」の著者中山三柳です。あかりは短檠です。この箱台方架短檠は、夜咄用のあかりとして、太平の江戸時代の大名茶人や豪商茶人に好まれたと言う茶道具です。
大名侍医の地位をみずから辞して醍醐にこもり「物言はぬともしびこそ我友どち」とニヒる三柳の背を射すともしびが、大名遊び用の短檠だとは、何たる皮肉でしょうか。多分この肖像を依頼された画工柳川重信も、「詩文・和歌にすぐれたるはみな淫」と「詩文風雅も、もてあそばざるは野にて卑」の、いずれに順うべきかに悩んだ一人だったのでありましょう。

図4は良寛の自画賛像です。ひところの私は賛にのみ心が向き、人との語らいより物との語らいに傾きがちだった自分の弁護の具として「孤りあそびぞ吾はまされる」と、時折、心にそらんじたものでした。しかし、近頃は言うまでもなく添えの行灯の方に心ひかれます。この行灯は、いわゆる四脚角行灯で、歌舞伎では世話行灯と呼ばれ庶民の家を表わす道具になっています。行灯と言えば、私は小学生時代「戦友」を歌い終わるたびに、すき間風に涙をぬぐう遺族の姿を目に浮かべたものでしたが、それにしても、良寛がみずから自分に添えたこの行灯は粗末過ぎます。台の小引出しも、油こぼれを溜める受け杯も確かに描きながら、いわゆる行灯皿も、火袋の飾り格子も、これにはありません。
電灯が点って文化は消えたと言いたくなるほど、それまでの日本の灯火器は驚くほど多彩でした。そして、それらは絵巻物や絵草紙等からも伺えるように、その時代、その地域、その階級、その用途に応じた用の美を発揮し、時にはそれを用いる人の人格や心境までも表現しています。こうした状況が最もはっきりしていた江戸末期に、良寛があるがままに自分に添えたのが、塗りも、格子もない下手物の角行灯なのです。兼好の菊灯台と比べるまでもなく、この行灯こそ不識自在の良寛の心境を示すものだと考えられます。

図5は、鏑木清方の樋口一葉です。昨年、はからずも、県立美術館開館五周年特別展で本物に対面できましたが、この肖像のランプの存在も、まさに動かしがたい表現だと感じました。それは単に明治の東京下町住まいを語る背景というだけではありません。
灯火親しむべき夜半、硯箱ならぬ針箱を開きながら、その針にも手がつかない悲しみ。その悲しみに耐えて、けなげに明日を思う一葉。緑と焔の赤も一層ものさびしい吊ランプ。灯火器の中でも最も画期的で薄命だったガラスの石油ランプ。画家清方の、一葉に寄せる思いの深さが、しみじみと身にしみます。
(甲子(1984年)正月十九日、雪の夜)